2016/05/27

【5-6】白金三光町支流

(写真は特記ないかぎり2005年撮影のものです)

  港区白金台4丁目、三田用水白金分水よりも1つ東側の谷から、かつて小さな川が流れ出し、1kmほど北に下った白金5丁目で、渋谷川下流である古川に注いでいました。水源は東京大学医科学研究所(元・伝染病研究所)と、国立公衆衛生院跡地の間にある窪地にかつてあった池です。
 川の流域は旧町名で「白金三光町」にあたること、戦前に刊行された「芝区誌」の白金三光町の項に「この町の中央を東西に二分する渓谷が聖心女学院、伝染病研究所の構内に奥深く食い込んでいる。」と記されていることから、ここでは古川(渋谷川)白金三光町支流と呼ぶことにします。まずはいつものように地形段彩図を。
 (地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

白金台町の「悪水溜」

 水源であった医科学研究所の池跡よりやや西、白金台4ー11付近の窪地には、明治中ごろまで旧白金台町3丁目から11丁目(現目黒通り沿い)の下水を集め地面に浸透させていた「悪水溜」と呼ばれる池がありました。
 明治後期には埋め立てられ住宅地となっていますが、上の段彩図でわかるように、現在でも出口のない凹地の地形が残っています。

 下の写真は目黒通りから北西側に入る道からその窪地を眺めたものです。一帯が大きく凹んでいることがわかります。窪地の底と周囲との高低差は最大6mに及びます。
(2016年再撮影)

煉瓦の擁壁

 窪地の北東〜南西の縁には、重厚な煉瓦積みの擁壁が残っています。明治期に設けられたものと思われますが、悪水溜が埋め立てられる前に出来たものかどうかは不明です。
(2016年再撮影)

 窪地の北西側の土手の上には医科学研究所が広がっています。三光町支流の水源の谷はこの土手を越えた先にあります。
(2016年再撮影)

東大医科学研究所

 東大医科学研究所は、1892年(明治25年)北里柴三郎が設立した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」が前身で、のち内務省所管となり1906年(明治39年)現在の場所に移転しました。1916年(大正5年)には東京帝国大学付属になり、1967年に伝染病研究所から医科学研究所に改組されました。
 戦前に東大安田講堂などと同じ内田祥三の設計で造られた、ゴシック風の重厚な建物が今でも現役で残っています(1号館)。
隣接する旧国立公衆衛生院もほぼ同デザインの建物で、2005年現在保存運動がおきているそうです。(※2009年に港区が建物ごと取得し、2015年からの改修工事を経て2017年には地域施設として再オープン予定)

水源池の跡

 医科学研究所と旧国立公衆衛生院に挟まれ、木々の生い茂る窪地となっているところに、かつて川の水源の池がありました。ここから北へと伸びる谷の谷頭にあたっており、もともとは湧水のたまる池だったのでしょう。大岡昇平の「幼年」には、伝染病研究所に入院したときの池周辺の様子が描かれています。
「門を入るとすぐ右側が漏斗形に落ち込んだ地形で、付属病院はその向い側右手の傾斜に臨んで建っていた。対面は聖心女学院であるが、斜面の下の方に池があり、実験用動物小屋があって、夜が更けるとそれら動物たちの何ともいえない悲しげな鳴き声が聞こえた。」
池は1960年代半ばまでは存在していたようです。
(2010年撮影)

ウシガエルの日本導入の地

 1918年(大正7)、アメリカから持ち帰られた食用ウシガエルのオス12匹、メス5匹が伝染病研究所の池に放たれ、そこで産まれた卵から日本中にウシガエルが広まりました。この「伝染病研究所」の池がおそらくこの、三光町支流の水源池だと思われます。ウシガエルは一時期日本各地で養殖され、輸出までされていました。
 また、1927年にはアメリカザリガニが渡来したが、これはウシガエルの餌にするためだったといいます。今は亡き小さな川の源の池に、現在も日本各地にいる「ウシガエル」と「アメリカザリガニ」が関係していたということになります(アメリカザリガニの方は大船で繁殖された)。

 池があった窪地の北側には、谷筋が続いており、谷の斜面には稲荷の祠があって鳥居が並んでいます。
(2010年撮影)

V字谷

 医科学研究所の敷地を一旦出て、谷の続きを追ってみます。白金4丁目と白金台4丁目の境目となっている古くからある道から、川の流れていた谷を望むと、見事なV字谷となっています。谷底左側が医科学研究所敷地、右側は聖心女子学院の敷地です。谷の東側の台地上には高級そうな住宅やマンション、大使館などが建ち並んでいます。

聖心の池跡

 谷は聖心女子学院の敷地を南北に横切っています。学院は1915年(大正4年)、現在の聖心女子大学の前身、聖心女子専門学校としてこの地に開校しました。正門を入ってすぐ右手のテニスコートの場所が谷底となっており、戦前まで池となっていたようです。
 知人の祖母が聖心出身ということで昔の様子を聞いてもらったところ、「あの辺は昔は湿地で、葦だかヨシだかが生えた沼があって、はまったら危険だから、生徒はあのエリアに近寄っちゃいけないと言われていた」とのことで、雨が降るとすぐ水浸しになっていたそうです。
 地形図を見ると1916年(大正5年)の1万分の1地形図で、この場所に池が描かれていて、終戦直後に刊行された3千分の1地形図でも湿地として描かれており、証言を裏付けています。

未舗装の暗渠

 更にそのテニスコートの北側に廻り込んでみると、谷底の東縁に沿って、未舗装の暗渠が残っています。暗渠の入り口には下水道局管理敷地と書かれた看板がたっています。

 谷底は明治後期まで浅い池だったようで、昭和22年補修の3千分の1地形図では湿地として描かれ、東縁の現在の暗渠の場所に沿って川の流れが描かれています。暗渠となった現在では、両側を聖心学園の敷地に挟まれ、周囲から隔絶された秘境の趣があります。遡って行くと、先のテニスコートの直下で行き止まりとなっています。
(2010年撮影)

明治生命創始者の屋敷跡

 暗渠を下流方向へと辿って行くと、細く深かった谷はやがて、朝日中学校(現・白金の丘学園)の校庭のわきで、古川沿いの低地に口を開けます。校庭の東側を、曲がりくねりながら暗渠が通っています。
 朝日中学校の敷地はもともとは、日本初の生命保険会社である明治生命の創始者、阿部泰蔵の屋敷地でした。学校のホームページによると、谷沿いの校庭は屋敷の庭となっていて生い茂る庭木の間に石を配した庭園で、その中に川が流れていたとか。この川が今暗渠となっている流れのことなのでしょうか。庭園の名残りのケヤキの大木が、今でも校庭の真ん中に生えています。(2016年現在、学校の改築により校庭の大部分は消失。)

路地暗渠

 白金北里通り(三光通り)を越えると、朝日中学校脇と同じくタイル状のブロックで舗装された暗渠が残っています。植木が並び家々の勝手口が面した、生活感のある路地裏となっています。

 この区間は戦前には暗渠化されたようですが、川跡の雰囲気が色濃く残っています。暗渠の路地ではよく猫に出会いますが、ここでもオッズアイの猫がお出迎え。

 途中路地が直角に曲がる地点には、錆びかかった立派なマンホールが、存在感を放っています。

五之橋の合流地点

 暗渠は先の路地を抜けると直角に曲がって白金3丁目と5丁目の境の「五の橋通り商店街」道路下となり、まっすぐ進んで五之橋のたもとで古川に合流しています。橋の下に口を開けた排水口はかつての合流口と思われます。一見普通の土管に見えるが、その縁取りは石の組み合わせでできているようで、古さを感じさせます。この付近の古川の護岸は、戦前につくられたものがそのまま残っています。(2016年現在、大規模な改修工事中。)

 短いながら地形的にも、川沿いの歴史にも興味深いポイントの多い暗渠でした。次回は更に一本東側の谷筋を流れていた「玉名川」を追っていきます。


2016/05/18

【5-5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡

(写真は特記ないかぎり2005年撮影のものです)

 三田用水白金分水の1回目の記事(→リンク先)では三田用水からの分水路と、自然教育園からの流れが合流するところまで、2回目の記事(→リンク先)では、伊達跡の支流と蜀江台方面からの支流をとりあげました。3回目となる今回は、古川に合流するまでの下流部をたどります。

 前回掲載した、かつての白金分水の流路図を再度みてみましょう。地図の中で水色となっているのが、現在暗渠や道路などとして、その痕跡を辿ることができる区間です。外苑西通りが首都高とぶつかり北に曲がる角、白金六丁目に、長めの水色のラインが続いているのがわかるかと思います。ここを辿っていきます。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図にプロット)

暗渠の路地

 外苑西通りを横切り白金6丁目に入ると、曲がりくねった、みるからに暗渠の道が残っています。
(2015年再撮影)

 この区間は昭和初期に暗渠化され、幅1.6m、高さ2.2mほどの矩形の暗渠が下水道白金幹線となって地下に流れています。路面にはその当時に設けられたと思われる、立派な縁石で囲まれたマンホールが点在しています。(※2016年現在は新しいマンホールに付け替えられ消滅。)
明治期の地図に描かれた流路と全く同じ位置に暗渠が続いています。暗渠の縁に沿って続く大谷石はかつての護岸の痕跡と思われます。
燈孔

 暗渠上にはところどころ、縁石に囲まれた蝶番付の小さな鉄蓋があります。これは暗渠の中での作業時に灯を吊るすための「燈孔」で、こちらも昭和初期の暗渠化時に設けられたものです。
(2015年再撮影)

 暗渠の路上に緑がはみ出しています。左側の低い擁壁の奥、駐車場となっているところは、かつて神社でした。(※2016年現在はマンションになっています。)

道路沿いのドブ

 しばらく進んでいくと暗渠の路地は直線の道路に合流します。暗渠自体は道路の下に幅2m弱の下水となって通っていますが、よくみると道路沿いに蓋をした結構幅のある側溝が並行しています。いわゆる「ドブ板」をわたした「ドブ」の痕跡で、都心では珍しいのではないでしょうか。
ところどころ、鉄板が渡されていて中が覗けるようになっています。写真の位置ではドブの幅がやや狭くなっています。

白金三光町

 やがて暗渠は旧白金三光町の白金北里通り商店街と交差します。商店街は木造の長屋や看板建築の商店が並び下町風な風景が残っています。
(2015年再撮影)

並行する分流

 ここで、一部に残る、白金分水本流に並行する分流を見てみます。冒頭の地図をみていただくと外苑西通りと恵比寿通り(白金北里通り)の交差点付近、本流の北東側に並行する水路が描かれていると思います。こちらは一部の区間が路地として残っています。
 下の写真はその区間の始まりです。外苑西通りからそれて、曲がりくねった細い路地が分かれています。
(2015年再撮影)

 路地の入口には立派な鉄の縁取りが設けられた大きなマンホールがあります。隣接する家がその上にはみ出しています。
(2015年再撮影)

 蛇行する路地の路上には苔が生し、湿度の高さを伺わせます。こちらの分流は、恵比寿通りを超えるとその先の痕跡は不明瞭となります。
(2015年撮影)

北里研究所

 再び本流に戻ります。写真は三光通りを越えた先の暗渠の様子です。この辺りの水路は先ほどの分流を含めて幾筋かに分かれており、その流路や本数も時期によって異なっていたようです。写真の付近は明治から大正にかけては湿地となっていて、北里研究所の北側あたりは沼となっていたようです。
 北里研究所は1893年(明治26年)日本初のサナトリウム(結核療養所)として開設された「土筆ヶ岡養生園」を前身とする病院です。付近の土地は明治初期には福沢諭吉の所有となっていて、彼が自ら所有する土地を北里柴三郎に提供し、養生園がはじまったとのことです。

狸橋の合流口

 水路は狸橋の下流側で古川に合流します。戦前の古川改修時に設けられた古い護岸の一角に、暗渠の合流口が開いています。現在では暗渠を流れる下水が大雨でオーバーフローした時以外は、ここから水が流れ出ることはありません。(※護岸は現在改修され新しいものになっています。)

狸橋と狸蕎麦

 白金分水が古川(渋谷川)に合流するそばに架かる狸橋は、白金分水の合流口の脇にあった蕎麦屋が狸に化かされて木の葉のお金で蕎麦を食べられた伝承に由来します。江戸後期の地図を見ると、古川に架かる橋と、そのたもとの「猩蕎麦」の敷地が確認できます。
(地図出典:江戸切絵図 目黒白金辺図(1849−1862))

 蕎麦屋は明治初期に廃業したのち、福沢諭吉に買い取られ別荘として使われるようになりました。また、白金分水には直径3.5mほどの水車が架けられており、こちらも福沢諭吉が買い取り経営しました。当初はこの水車を「広尾水車」と呼んでいましたが、のちに渋谷川の天現寺橋上流側に「広尾水車」を設置するにあたり、こちらの水車は「狸そば水車」と名称を改めたといいます。よほど「狸蕎麦」に思い入れがあったのでしょうか。

 以上で白金分水のパートは終了です。最後に地形段彩図を再掲します。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

次回は白金分水の東側の谷筋を流れていた白金三光町支流(仮称)をとりあげます。