2016/07/15

【5−10】麻布宮村町支流(2)宮村町の湧水の流れ

 (※写真は1997年、2005年、2011年、2016年の撮影です)

 前回のがま池に引き続き、がま池の谷の反対側、元麻布3-6にのびる谷を流れ、がま池からの流れを合わせて麻布十番まで続いていた小川を追ってみましょう。こちらの流れは奇跡的にも、今でも湧水の流れる水路が一部残っています。その流路の大半が旧麻布宮村町を流れていたことから、ここでは「麻布宮村町支流」と呼ぶことにします。

内田山

 まずは地図から。段彩図でわかるように、川は現・元麻布三丁目にあたる台地の南側を回りこむように流れていました。この台地は幕末期、小見川藩内田家下屋敷となっていたため、明治以降地元では「内田山」と呼ばれていました。明治中期には井上馨が別邸を設け、晩年をそこですごしてます。宮村町支流の谷と内田山を挟んで反対側には藪下とよばれた字名の谷があって、こちらにもかつては湧水の流れがありました。これについては次回とりあげます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

水路の始まり

 水路の痕跡は谷の北西端、旧宮村町と櫻田町の境界、現・元麻布3丁目1番地付近から始まります。家屋の間に不自然な隙間が残っています。
 (2016年再撮影)

更に伸びる水路と「三十二番地」の石碑

 隙間の先には大谷石の擁壁がそびえています。内田山が更に一段高くなっている部分を囲む擁壁です(冒頭の段彩図参照)。擁壁上には不自然な凹状の切れ込みが見えますが、大正期〜昭和初期の地図には、その部分を通って更に台地の最上部の尾根を抜けていく道(かつて井上馨邸の前を通っていた道です)まで水路が描かれています。
 写真は載せませんが、確かに擁壁の上には、護岸の痕跡と思われる半ば埋まった低い大谷石が続いています。ただ、この区間はおそらく尾根上の雨水や排水を水路に落とすために、人工的に上流側に水路が延長されてたもののではないかと思われます。
 擁壁の下には「三十二番地」と刻まれた謎の石碑が建っています。石碑の立つ場所は櫻田町32番地、崖上は25番地、そして水路跡の右側は宮村町となっています。境界を示す何らかの必要性があって設けられたのでしょうか。
 (2016年再撮影)

鉄蓋の暗渠?

 さて、下流方向に向かっていきます。こちらは少し下流に向かった崖下には、水路らしき場所に鉄板の蓋掛けをしているのが見られます。水路として機能しているのかどうかわかりませんが、小地図で確認できる水路のルートに完全に一致します。
 (2016年再撮影)

宮村町の谷

 この付近から、谷筋がはっきりとし、深くなります。谷底を埋めていた住宅地はバブル期に取り壊されたのち、2001年には低層の高級マンション「元麻布プレイス」となりました。
 写真は元麻布プレイスの中央を抜ける道を、谷底方向に向かって見た様子です。外国人の居住者が多いというその一角は整然としてきれいですが、ひとけがなく、どこか郊外の新興住宅地を思わせ、周囲の町並みとは隔絶された空間となっています。
(2005年撮影)

崖下の川跡

 水路跡は、いったん途絶えますが、マンションの東側裏手の崖下を覗くと細長く隙間が続いているのがわかります。まだこの辺りでは単なる空地となっているだけのようです。
(2005年撮影)

1997年の宮村町支流

 1997年に訪問した際は、谷間の一帯は更地となっていて駐車場などに利用されていました。大谷石の擁壁の崖下を通る水路の周りには雑草が生い茂り、周囲には家具が捨てられていたりして荒涼としていました。
 (1997年撮影)

現在の宮村町支流

 現在はマンションに阻まれてなかなか川跡の様子を窺い知ることができませんが、先ほどの空地からしばらく下って、わずかに水路を確認できそうな場所から崖の下を見ると、澄んだ湧水がさらさらと流れています。水は水路の途中、どこかからか湧き出しているようですが、その場所は見えません。いずれにしても、1997年の荒れていた状態から、川は復活していました。
 (2005年撮影)

宮村池

 元麻布プレイスの敷地の南東角まで行くと、裏手にぽっかりとわずかな住宅と空地に囲まれた一角があって、宮村町支流を流れる湧水を引き入れた小さな池が佇んでいます。池を囲む一角は「元麻布三丁目緑地」として、元麻布プレイスの竣工と同年の2001年に整備されたビオトープとなっており、季節により草花が生い茂り、地元の小学生達により「宮村池」と名付けられた池にはメダカやあめんぼが泳いでいます。
 (2005年撮影)

川からの導水管と、支流の支流

 緑地の北西端までいくと、崖下を流れる宮村町支流の水をパイプで引き込み、池へと注がせているのがわかります。そのパイプの下にも溝があって、パイプとは逆方向、宮村町支流に向かって、わずかに水が流れています。元麻布3-5の長玄寺境内からかつて流れだしていた「支流の支流」の名残です。
 (2005年撮影)

1997年の、長玄寺境内からの流れ

 同じ場所の1997年の様子です。当時宮村池の一帯には木造の家屋がいくつか立ち並んでおり、水路には手前からかなりの量の湧水が流れていました。
 (1997年撮影)

1997年の湧水

 流れの上流方向を見ると、宮村町の谷の真ん中を貫いている道の下、古そうな大谷石の石組みの下から水が勢い良く流れ出しています。97年の時点でこれより先の水路は確認できませんでしたが、かつては水路は更に道路の向かいの長玄寺境内から続いていました。その流路は明治後期の郵便地図や昭和初期の地籍図でもはっきりと確認できる、由緒ある流れです。この時点で上流を暗渠にし、ここまで導水していたのかもしれません。
 (1997年撮影)

2005年、涸れた湧水口

 2005年の同じ場所です。澄んだ水がたまってはいるものの、整備された流出口からの水はほとんど涸れてしまっています。
 (2005年撮影)

崖下の水路と導水堰

 崖下の本流に戻ります。この付近では、川の様子を見ることができます(※2016年時点ではやや困難となっています)。奥にはコンクリートの小さな堰と、そこから二股に分かれたパイプが見えます。左側に分かれたパイプが宮村池の緑地へと繋がっています。
 2010年頃にはコンクリートの劣化によって漏水が発生し、池への導水が巧くいかず水が淀んでしまっていました。このため2012年には堰と上流の水路のリフォーム工事が実施されています。
(→リンク先参照 http://suikencreate.com/biotope/case_miyamuraike.html
(2016年現在、水は順調に池へ供給されています)
 (2011年撮影)

せせらぎ

 崖下を小川が流れていきます。細流ながらも丁寧につくられた大谷石の護岸は大正〜昭和初期のものでしょうか。都心のど真ん中とは思えない風景です。
 (2011年撮影)

欄干

 その先は水路と通りの間に家々が立ち並び、近寄ることはできなくなります。通りを迂回してがま池からの流れが合流する五叉路から少し内田山の方へ登って行くと、元麻布3丁目6番地と9番地の境目に欄干が残っています。
 (2005年撮影)

 その下をのぞき込むと、先ほどの流れの続きを確認できます。流れはちょうど欄干の下で下水に落ちているようで、水の音が絶え間なく響いています。
 (2005年撮影)

暗渠

 欄干の反対側(下流側)を見ると、水路の幅の敷地はあるものの埋め立てられてしまっています。これより下流は水路は消滅してしまい、ところどころ空地としてその痕跡を確認できるのみとなっています。
 (2005年撮影)

麻布十番の水路跡

 水路と離れて並行する谷底の道を麻布十番まで抜けると、再び水路の痕跡が現れます。
2005年時点では建物が密集していて隙間から垣間見られる程度だったのですが、その後
家々は取り壊され、駐車場になりました。その結果、崖沿いの古い擁壁と、コンクリートで覆われた水路の敷地がはっきりと確認できるようになりました。
 (2011年撮影)

 写真は水路の痕跡の最下流となる区間を上流に向かって見たところです。凸凹したつぎはぎコンクリートで覆われた水路跡の敷地は、駐車場の黒々としたアスファルトとは色も質感もはっきりと異なっています。路面のあちこちにはマンホールが無造作に設けられ、擁壁からは排水パイプが突き出しています。
(2011年撮影)

 かつて川はこの先十数m足らずで、藪下や芋洗坂からの流れと合流し、麻布十番の中央を流れて行きました。こちらについては次回にとりあげていきます。




2016/07/07

【5-9】麻布宮村町支流(1)がま池からの流れ

(※写真は特記ない限り、2005年撮影のものです)

 前回まで、古川右岸(南側)、白金の台地に発する支流をたどってきましたが、今回以降は左岸(北側)の「麻布山」の東側、六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れていた小川をたどってきます。これらの川は最終的には「赤羽川」「吉野川」などと呼ばれた流れに集まり、一の橋で古川に注いでいました。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

 今回は旧麻布宮村町の谷を流れていた細流のうち、現・元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた枝流をたどります。

 麻布の「がま池」

  「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされています。このガマガエルに関する伝説にはいくつかのパターンがあるようです。もっとも知られているのは、江戸時代、池の敷地を屋敷としていた山崎氏の家臣をこの蝦蟇が食い殺してしまい、これに怒った山崎氏が蝦蟇退治をしようとしたところ、夢枕に蝦蟇の化身の老人が立ち謝罪をして、償いに屋敷の防火を約束したというもの。こののち一帯が大火事となったとき、この蝦蟇が池から現れ水を噴き出して延焼を防いだということです。それ以来、池は蝦蟇池と呼ばれるようになり、また池の水で溶いた墨で「上」の字を書いたお守り「上の字様」が、防火や火傷除けとして大流行したそうです。「上」の字を書いたお守りは今でも麻布十番稲荷で売られています。

  明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれています。この時点で池の広さは1600平方メートル。この頃は個人の邸宅の敷地内となっていたようです。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いています。点線で描画されている区間は暗渠だったと思われます。
 (地図出典: 五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年刊行))

 がま池の説明板

  池のあった付近の道路端には、1975年に港区教育委員会が設置した説明版があります。ただ、この看板のそばには池は全く見えず、どこに池があるのかよくわかりません。周囲を歩きまわってみると、池の南側にある駐車場の一角から、木々の隙間越しにがま池の水面を覗くことができます。

小さくなっていったがま池

  がま池は周囲の造成や宅地化に伴って徐々に埋め立てられていき、1970年代初頭の時点では1200平米になっていました。そして、1972年には池の北側半分を埋め立ててマンションが建ち、池はマンション居住者専用の庭として囲い込まれてしまいました。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまいました。
  さらに2002年にはマンションの建て替えにより3割近くが埋め立てられ、更に池は小さくなってしまいました。 現在の池の広さは地図から判断するとおよそ600平米。周囲90m弱の長円形をしており、主に循環水で水面を維持しています。明治期の地図に描かれていた中島はかろうじて今でも残っています。

保存運動の看板

 今でも池の周囲の住宅地のあちこちに、2002年のマンション建替え時に起こった反対運動の看板が残っています(※2005年時点)。
 保存運動のときの成果か、マンションの入り口には、申し出ればがま池の見学が出来る旨が書かれています。しかし、インターホン越しに管理者に訊いてみたところ、最近空き巣などの犯罪が多いので一時的にとりやめているとのことでした(※2005年時点。その後年をあけ何回か訊いてみましたが、いずれも公開していないとの回答ばかりで、有名無実となっているようです)。

がま池から続く谷

 池の北側へ向かいます。かつて池からの小川が流れていた谷は、三方を崖に囲まれた小さく深い窪地となっています。再開発の手も今のところ入っておらず、小さな家屋が密集し、谷の向こうに見える六本木ヒルズとは対照的な風景となっています。


宮村児童遊園の湧水

 谷の東側の崖に沿う宮村児童遊園の一角には、わずかですが湧水が残っています。写真の池のようなところに湧水が集められています。水の多い時期には池のようになっていますが、このとき(2005年6月)は水量はわずかでした。

 崖の下のいくつかの湧水地点から、水を溝に集めているようです。水草が生えていて、常時水があることを忍ばせます。

路地の風景

 谷底の住宅地は、公園から更に一段下がっています。谷底は隣接する本光寺の所有地で、明治時代前半までは水田となっていましたが、明治後期に宅地化されました。谷底の住宅地には行き止まりの細い路地が何本か伸びていていて、かつては麻布界隈のあちこちで見られた下町風の風景が、今でも残っています。
(2011年撮影)

響く湧水の音

 一番奥(南寄り)の路地から公園の方向(東)を見ると、木造家屋の向こうに元麻布ヒルズが聳え立っているのが見えます。手前の路上に見える雨水桝には、右(北)側から続くU字溝から湧水が注ぎ込んでいて、水音が響いています。住宅地の裏側の崖下から流れ出しているようです。
(2011年撮影)

がま池からの水路跡

 かつてがま池やこれらの谷に湧く水を集めて流れていた小川は、公園の西側に沿ってその痕跡を残しています。未舗装の路地に、粗く積まれた擁壁が風情を出しています。路地の細さに比してマンホール径が大きいのが印象的です。
(2010年撮影)

 この水路は昭和初期までには下水化されたようです。未舗装の路地は、人がすれ違えないくらいの細いアスファルト路地となって更に北に続いています。右側に迫る崖の上には、高級マンションが建っています。

大隅坂と狸坂が落ち合う地点で、路地は本光寺前を抜ける道路に出ます。

狸坂

 狸坂は、人を化かす狸が出没したことがその由来という、そのままの名前の坂で、ごらんの通りかなりの急坂となっています。坂の下の標高13mに対し坂の上は26m。がま池の谷の深さがよくわかります。
(2011年撮影)

 川はこの狸坂の袂で、元麻布プレイスの谷筋から流れ出していた小川(仮称「麻布宮村町支流」)に合流し、麻布十番方面へと流れていました。次回は今なお一部は水面を保ち湧水の流れるその小川を麻布十番まで辿ります。