2015/11/29

【1-6】渋谷川上流(3)本流 原宿橋〜渋谷駅まで

(※写真は特に記載のない限り、2005年撮影のものです)

もうひとつの支流暗渠

さて、玉川分水原宿村分水の合流地点、原宿橋跡から、再び渋谷川を開渠になる地点まで下って行くことにします。原宿橋の左岸側(東側)からは、かつてはもうひとつ別の支流が合流しており、車止めのある細い路地として残っています。
 ※2015年追記:こちらについては2010年に記事にしていますので、ご参照下さい。下の写真はその際撮影したものです。



穏田の水車

 この付近の渋谷川は、一帯の地名から穏田(おんでん)川と呼ばれていました。写真の場所近辺には「村越水車」があり、明治中頃は直径6.5mの大きな水車に杵を57本も連結して米搗きを行っていました。水車は川が蛇行する地点(写真で暗渠が右に曲がる突き当たりの場所)に、蛇行をショートカットして直線で進む水路をつくり、そこに設けられていました。これは水の勢いを強めて水車の能力をたかめるための工夫でした。渋谷川沿いにはこのように蛇行地点を利用した水車が多かったそうです。
 葛飾北斎の冨嶽三十六景の1枚に「隠田の水車」はこの水車か、もしくはこれより下流、穏田神社の傍にあった「鶴田水車」(忠左衛門の水車)のいずれかを描いたものといわれています。



キャットストリートと裏原宿

 渋谷川上流部は1963年に暗渠化、67年に遊歩道・遊び場として整備されました。そしてその後、誰ともなく「キャットストリート」と呼ばれるようになりました。もともとは表参道よりも下流(南)側を呼んでいたようですが、最近では原宿橋の辺りまでさかのぼって呼ばれているようです。由来には諸説ありますが、1980年前後に、暗渠沿いの現渋谷教育学園の生徒が、猫が多いため「猫通り」と呼び始めたことから広まったというのが有力な説とされています。確かに暗渠を歩いているとたいてい猫に出会います。
 下の写真は1996年末の渋谷川暗渠上の様子です。この頃まではまだ遊び場として砂場やブランコが設定されている区間が各所にありました。




 1996年以降、暗渠跡の遊歩道は再整備されて、明るい車道となり、暗渠沿いには個性的なアパレルショップや雑貨屋が増えました。特に表参道以北明治通り以東の一帯は、90年代後半以降「裏原宿」とも呼ばれるようにもなりました。


参道橋と「鐙の池」

 表参道は明治神宮への参道として大正9年に開通しましたが、それ以前は通り付近の地形は今とはずいぶん異なっていました。神宮前5-7にあるユニオンチャーチの辺りを源頭とし神宮前小学校にかけて深く細長い谷があり、そこには「鐙の池」と呼ばれる湧水池がありました。池を囲む一帯は浅野山と呼ばれる広島藩浅野家屋敷の森となっていて、鐙の池の西側にも同じように細長い池があったようです。
 谷は表参道が造成された際に池ごと埋め立てられましたが、豊富な湧水量を誇っていたため工事は困難を極めたそうです。その後つくられた神宮前小学校のプールは湧水を利用していましたが、おそらくその湧水は埋められた鐙が池の谷の湧水が地下を通って湧出していたと推定されています。地下鉄千代田線の建設時にも大量の湧水があったことが記録に残っています。

 表参道が渋谷川を渡る地点には「参道橋」が架けられました。その欄干は現在でも残されています。参道橋の手前では、明治神宮南池からの小川が合流していました。こちらについては次回に辿ることとします。


参道橋より下流を望む

 参道橋下流部も最近遊歩道が再整備され、妙に小綺麗になっています。「キャットストリート」とはいうものの猫が出没できる雰囲気ではありません。



蛇行跡

 一方で、小奇麗な暗渠の左岸側には、蛇行跡の暗渠が残っています。こちらは昭和初期に渋谷川が改修された際に、流路をまっすぐにちかい形に整備したときの名残です。こちらにはうらびれた暗渠っぽさが漂っています。


護岸

 遊歩道沿いに一段低くなった道が続いています。おそらくもともとは川沿いの道で、ガードレールの下のコンクリート壁は護岸だったのではないでしょうか。
(※2015年追記:かつての護岸そのものではなく、その上に追加したもののようです)


鶴田の水車

 穏田神社を過ぎると暗渠の川幅が広くなり、道の真ん中に児童遊園が現れます。かつて暗渠上には各所に遊具が設置されていましたが、現在残るのはここだけです。近所の子供たちが遊んでいました。100年前は遊具ではなくここに流れていた川に入って遊んでいたのでしょう。
 この近辺にはかつて「鶴田の水車」がありました。この水車は18世紀後半に設置された古いもので、渋谷川に高さ3mもの堰を造って左岸側に水路を分け、水車を廻していました。明治後期には水車の動力を使って真鍮の延板を作っていたそうです。この場所が穏田村であることから、先の村越水車ではなくこちらが北斎の描いた「隠田の水車」だとする説もあります。


消火用給水孔

 児童遊園の手前、かつての八千代橋の床版の上には、東京府の紋章が入った「消火用給水孔」が2箇所残っています。戦前、川がまだ開渠だったころの設備と思われます。川沿いから水を取るのが困難で、欄干越しだとホースが折れてしまうので橋上に設置したのでしょうか。


※2015年追記:この「消火用給水孔」の謎について、「マンホール・下水・暗渠 ~rzekaの都市観察」というサイトを開かれているrzekaさんが、丹念な調査に基づく検証結果をまとめられております。以下にリンクさせて頂きます。

→「【マンホールナイト7】消火用吸水孔の新事実」

宮下橋

 渋谷川が明治通りを越えるところにはかつて宮下橋が架かっていました。現在落書きだらけの欄干がひっそりと残されています。



宮下公園脇

 明治通りを越えた先は幅7.5m、高さ3.6mの暗渠となって宮下公園の脇を通っています。暗渠沿いにはホームレスの人々のブルーシートハウスが林立しています。この先では宇田川(の暗渠)と合流しています。


姿を現す渋谷川

 東急百貨店東横店の地下を通って渋谷駅の南東側で暗渠の区間は終り、渋谷川は地上に姿を現します。水はほとんど流れていません。現在の渋谷駅東口のバスターミナルのところには18世紀末より「宮益水車」が設置されており、明治初期にはこの水車の利益金で現在再開発中の東急文化会館の敷地にあった「渋谷小学校」の運営をしていたそうです。(なお、渋谷駅は今よりも南寄り、埼京線ホームのある辺りにあった)
 暗渠が地上に出るところには「稲荷橋」が架かっています。現在国道246号線が通っている敷地にはかつて、橋の名前の由来となった「川端稲荷(田中稲荷)」があって、銀杏などの木々が生い茂っていました。大正期この近辺に住んでいた大岡昇平の「幼年」には

「当時は境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落としていた。「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、。荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた」

と書かれています。また、ちょうど写真に写っている辺りの川上には、大正期には川を跨いだ「川上家屋」が何軒か建っていたそうです。

※2015年追記:現在渋谷駅周辺の再開発に伴い、渋谷川の暗渠にも大きな変化が起こっています。詳細はこちらの記事をご参照ください
「渋谷川暗渠、2度めの移設」(2014/2/6公開記事)


次回は参道橋付近で合流していた、明治神宮南池を水源とする川を辿ってみます。



2015/11/27

【1-5】玉川上水原宿村分水(2)神宮北池の流れと原宿村分水下流

(写真は特記がない限り2005年撮影です。)


ひきつづき、原宿村分水の下流部をたどっていきます。まずは神宮北池に注ぐ小川から。


北池に注ぐ小川

 明治神宮の敷地内、宝物殿のそばに「北池」に注ぐ200mほどの小川が流れています。一帯は江戸期は彦根藩井伊家の下屋敷で、明治時代には南豊嶋御料地となり、草原や林が点在していたようです。そして大正に入って明治神宮として整備されました。宝物殿は1921年に完成しましたが、その正面の庭園とこの小川も同じ頃に整備されたものだといいます。ただ、明治初期の迅速測図には、谷戸を流れる川が描画されており、地形から判断しても、もともと水が流れていたのではと思われます。
 小川の水源は現在でも自然のものです。写真の奥、林の中にくぼみがあって、そこから水が染みだしています。比較的浅い谷のせいか水量は季節によって変化するそうで、枯れているときもあります。


落ち葉積もるせせらぎ

 写真は2004年11月、度重なる台風の雨により、東京各地で湧水が復活したときのもので、小川にはかなりの水量が流れていました。



 こちらの写真も2004年11月のものです。一帯は緩やかな丘を芝生が覆う北欧式庭園となっています。川の水が流れている時期にはで子供達が水辺で遊ぶ姿や、鳥が水浴びをする様子も見られます。


神宮北池

 北池の場所はもともとは湿地となっていたようで、神宮の造成時に堰き止めて池がつくられました。最近では十数羽のオシドリを観察できることで知られているようです。池が出来て以降、池から溢れた水は暗渠として神宮の北端で外に流れ出し原宿村分水に合流していました。現在も水が流れ出しているのかどうかは、池の北側が立ち入り禁止となっているためわかりません。


山手線を越える

 再び原宿村分水本流に戻ります。山手線土手の東側に、水路が土手の下を潜っていた痕跡が残っています。山手線は明治18年に開通していますが、その当初よりこの位置で川を越えていました。


暗渠の道路

 道路の下を幅2mほどの暗渠が流れています。この先明治通りの手前では流路跡が「千駄ヶ谷3丁目遊び場」となっています。明治通りを越えると再び2本の並行した流れに戻ります。


東側水路の暗渠

 明治通りを越えた先は、南新宿駅付近とは逆に西側の流れが戦前に、東側の流れが戦後に暗渠化されました。暗渠化に先立ち、大正初期には2本の水路に挟まれた水田が宅地として整備され、水路も直線にちかいかたちに改修されました。
 西側の水路が暗渠化される直前の1930年代には、付近では単に渋谷川支流と呼ばれていたとか。澄んだ水が流れていたそうなので、その頃はまだ玉川上水からの水が流れていたのでしょう。大雨の際には増水し、子供が流されて亡くなったこともあったそうです。写真は東側水路の暗渠です。


東側水路と西側水路の合流

 東側水路はこの先で西側水路と合流していました。合流地点の下流部は千原児童遊園になっています。(写真奥の緑地)



渋谷川との合流地点

 原宿村分水は渋谷川に架かっていた原宿橋(跡)のすぐ下流側で渋谷川に合流して終わります。合流地点での暗渠の幅は2.5m、渋谷川は3.6mとなっています。原宿橋跡のすぐ下流右岸側に、合流地点の一角が空き地となって残っています。写真の花壇あるスペースがそれで、この先に、左から右に向けて渋谷川暗渠が通っています。


次回は再び渋谷川へと戻り、流路を下っていきます。

2015/11/25

【1-4】玉川上水原宿村分水(1)原宿村分水、千駄ヶ谷分水

(写真は特記がない限り2005年撮影です。)

玉川上水原宿村分水

 玉川上水原宿村分水は原宿村、穏田村、上渋谷村の灌漑を目的に1724年に開通した玉川上水からの分水です。分水と言っても、その大半は自然河川を利用したもので、代々木3-21の現在文化学園のあるところから南に分水し、代々木3-29の湧水から発していた小川に引き込んで、小川沿いの浅い谷戸に拓かれた原宿村の水田を潤し、神宮前3-28の原宿橋下流側で渋谷川に合流していました。
  渋谷区史ではこの自然河川を代々木川と記していますが、これは実在の呼称ではないと思われます。なぜなら、もともと代々木は明治神宮の西側の地名で、川が流れていたのは千駄ヶ谷村、原宿村(のち、千駄ヶ谷町)だったからです。上流部の西側の流れは、多くが代々木村との境界となってはいたものの、代々木村には水利権はありませんでした。そして、上流部の地名が「代々木」となるのは1960年代後半の住居表示法施行以降で、そのころには川はすでに暗渠化されていました。ここではこの川を含め、全体を原宿村分水と呼ぶことにします。

まずは上流部から辿っていきます。


 写真は文化学園前、かつて玉川上水の水路だったところで、左側のビルの辺りから分水していました。画面手前に見えるアーチ上のモニュメントは、玉川上水が新宿駅構内を越えていた場所のレンガ造りの暗渠を復元したものだそうです。(2010年撮影)


水源の谷と藤倉電線の水車

 もともとの水源であったとされる近辺は窪地の谷頭地形となっており、明治時代の地図を見ると代々木3-15、14、28に池が描かれています。湧水があったという代々木3-29は現在都営アパートとなっており痕跡は見当たりません。玉川上水と非常に近く、上水からの漏水が湧水に加わっていた可能性もあります。
 分水は写真の道路右側(西側)の公務員住宅敷地の西端を南下し、写真奥、右から左に走る谷に合流して左(東)に流れていました。写真のとおり、かなりの傾斜となっていて、これを利用して明治時代には2基の水車が設けられ、米搗きや生糸製造に使われていました。1890年(明治23年)には公務員住宅の場所に、この水車を動力源として藤倉電線の工場が設立されました。水車は直径7mもある大きなものだったそうです。


行き止まりの水路跡

 公務員住宅敷地の南側に、水路跡の道が行き止まりになって残っています。この近辺ではこの場所だけが、川跡の雰囲気を漂わせています。


戸田因幡守抱屋敷分水と葵橋

 一方、原宿村分水の分水地点から玉川上水を東へ300mほど下った代々木2-5近辺から、かつて現新宿駅南口の南西側一帯にあった宇都宮藩戸田因幡守抱屋敷への分水がひかれており、これも原宿村分水のもととなった小川に合流していました。こちらが開削されたのは1699年と原宿村分水よりも早く、屋敷内の庭園用の分水だったと思われます。
 敷地内南側にあった池の周囲は、明治時代後期には紀州徳川家の屋敷となりました(渋谷川水系を辿っているとなぜか大部分の川の水源に「紀州徳川家」の屋敷が存在しています)。新宿駅近くの玉川上水路跡に、この徳川屋敷に名前の由来を持つ「葵橋」跡の碑がたっており、また水路跡も葵通りと名付けられています。
(※ 原版が見つからなかったため、画像が粗くなっています)


 田山花袋「東京の三十年」に収められた「川ぞいの路」に、この近辺の1890年代初頭の風景が描かれています。

「新宿駅の山手線の踏切・・・それも唯一線あるばかりであったが、それを越ゆると、玉川上水は美しい水彩画のような光景を次第に私の前に展けて来た。楢の林があると思うと、カサカサと風に鳴る萱原がある。路に傍って昔から住んでいるらしい百姓家が一軒ぽつねんとしてある。栗の木がある。と、帯を引いたような細い水の流れが、潺湲として流れているのが眼に入る。水が一ところ急湍をつくって、泡を立てて流れた。斜阪になった両方の岸には、秋は美しく尾花が粧点された。橋がところどころに絵のようにかかっていた。この玉川上水に沿った細い路、この路を歩く間、私の頭はいつも熱い創作熱に燃えていた」

 分水は、屋敷が徳川家の所有になったのと前後して「千駄ヶ谷分水」と呼ばれるようになりました。明治後期の分水は玉川上水に堰をつくり、大人の背丈程のトンネルで分水されていたそうです。堰は2m近い滝になっていたとのことです。また、原宿村分水と同じくこちらの水路にも水車が設けられ、米搗きや撚糸、組紐製造などに利用されていました。水車は現在マインズタワーが建っている辺りより下流側に、直径1.9m~5.4mのものが計4基あったようです。周囲の都市化と共に水車もなくなり、分水路は昭和初期までには埋めたてられてしまったようです。

徳川家屋敷の池跡

 徳川家屋敷の一帯は緑に囲まれた静かな場所であったため、大正から昭和初期にかけては学者や文化人が多く居を構えていたそうです。葵通り(玉川上水跡)の一本南側に現存する通りは「博士横丁」と呼ばれ、通り沿いに北一輝や長谷川伸、幸徳秋水なども住んでいたとか。
 徳川邸の池から流路が流れ出す地点は段差があり滝状になっていて、明治期にはここにも水車が設けられていました。昭和2年に屋敷の池は埋め立てられ、跡地には鉄道病院が建ちました。現在はJR東京総合病院となっています。写真左手が、かつて池があった辺りです。道路が低くなっている地点を左から右に横切って水路が流れ出し、100mほど先のところで原宿村分水へ合流していました。
(※ 原版が見つからなかったため、画像が粗くなっています)



代々木小学校南の暗渠

 原宿村分水は2本の流路が並行して流れていて流路の間は水田となっており、帯状の水田地帯が現在の小田急線南新宿駅近辺から神宮前まで続いていました。2本のうち西側の流路が千駄ヶ谷と代々木の境界線となっていました(現在は新宿駅南側一帯は代々木に編入)。
 東側の水路は1932年(昭和7年)頃に暗渠化されふつうの道路となっています(道路下には幅1.8mの暗渠が通っています)が、西側の水路は1960年代まで開渠だったようで、川跡の痕跡を残す暗渠となっています。こちらを辿っていくことにします。代々木小学校南側の行き止まりの道からはっきりした暗渠が出現しています。


南新宿駅下の橋跡

 小田急線南新宿駅ホームの高架下に、川が潜っていた跡が残っています。小田急線は1927年(昭和2年)に開通しましたが、開通当時の駅はもう少し新宿寄りにあり「千駄ヶ谷新田駅」という名称で、現在の場所は原宿村分水の谷を越えるため土手となっていたようです。1968年に駅が現在の場所に移動したとのことなので、その時点では川が開渠だったのかもしれません。


ポンプ井戸

 流路沿いの路地端にポンプ式の井戸が残っていました。よく手入れされており現役の様です。

※南新宿駅の前後の区間については、こちらの記事もご参照下さい
「渋谷川水系再訪(1)南新宿駅付近の原宿村分水」(2009/11/21公開)


大谷石の擁壁

 2本の暗渠はゆるやかに左に曲がりつつ平行してすすみます。西側の暗渠の右岸側には谷戸の縁の段差が擁壁となって現れます。ここの大谷石の擁壁は、川が暗渠化される以前からのものです。


石段

 明治神宮北参道入口のそばです。石垣には羊歯や苔が生えており、湿気の高さが伺えます。ここの石段で一旦川跡は消滅しています。明治以降(おそらく山手線が開通時)、この近辺でいったん東側水路と西側水路は一本にまとめられて山手線東側に抜けており、明治通り以東で再度2本に分かれていました。また、ここの手前でかつて明治神宮内の北池からの流れが合流していました。


次回は一旦この北池からの流れに立ち寄ってみます。


2015/11/23

【1-3】渋谷川上流(2)玉川上水余水吐〜本流原宿橋まで

(※写真は特に記載のない限り、2005年撮影のものです)

玉川上水

 玉川上水は、現羽村市の多摩川に設けられた取水堰から、現新宿区四谷の四谷大木戸までの約43kmを結ぶ江戸の上水道として1653年に開通しました。新宿御苑の北東角にあたる四谷大木戸より先は地下に埋めた石樋や木樋で市内に配水され、市民の飲料水として利用されました。
四谷大木戸に置かれた水番所では、毎日水位の測定・水量の調節をし、余った水や大雨の後の濁り水を南側の谷を利用した水路に流していました。これが渋谷川のもうひとつの水源となりました。この上水道は1898年に淀橋浄水場が完成し、1901年上水の市内給水が停止となるまで利用されていました。
 水番所跡には現在石碑が2つ立っています。写真は大きい方の碑「水道碑記」(すいどういしぶみのき)で、高さは4m60cmと巨大です。最近まで上水の設備が一部残っていたようですが、新宿トンネルの建設でなくなってしいました。


玉川上水余水路と三菱鉛筆

 新宿トンネルのすぐ南側から、新宿御苑東側に沿って玉川上水余水路の敷地が残っています。森に囲まれ鬱蒼とした草叢の下には約2メートル四方の暗渠が埋まっています。この場所から少し下流の右岸で、新宿御苑内の玉藻池へ導水する水路が分かれていたようです。また、明治時代には左岸に多武峰内藤神社の西側を通る水路が分水されていました。もともとは御苑の敷地からこの地に居地を移した内藤家が、米搗きのための水車を廻すための分水でしたが、明治20年頃にはこの水車を動力源として日本最初の鉛筆工場である真崎鉛筆の工場が設立されました。この工場から発足した会社はのちに「三菱鉛筆」となります。分水路は水車を廻した後再び余水路に合流していました。

 ※2015年追記:玉川上水余水路については、こちらの記事に詳しく紹介しましたのでご参照ください
 →「新宿の秘境・玉川上水余水吐跡の暗渠をたどる」(みちくさ学会2010.11.17掲載記事)


玉川上水余水路と玉藻池

 水路後は特に何に利用されるでもなく、雑草が生い茂っています。コンクリートの柵の向こう側は新宿御苑です。かつて玉藻池からの流路が並行して流れ、この近辺で余水路に合流していました。余水路はもともと「千駄ヶ谷」の支谷を利用しており、御苑内の玉藻池はその谷頭にあたります。ただし、池自体は前にも述べた通り江戸時代、庭園「玉川園」の造時に余水の水をひいてつくられた人工池です。


塞がれたトンネルと沖田総司

 外苑西通りを越えるところに、暗渠の上にかかるアーチを塞いだ穴がありました。アーチの上は行き止まりのトマソン的な空間になっています。明治期の地図と比較すると、もともとは御苑の門へ右側(北東)からアプローチする小道の一部分だったように見えます。アーチの場所にはかつて池尻橋という橋がかかっていたそうです。そしてこの橋のそばの植木屋の納屋で、沖田総司が最期を迎えたとのことです。


石橋

 外苑西通りの東側には石組みの立派な橋が残っています。この橋の下辺りは「ふかんど」と呼ばれる淵で、東側から短い支流が合流していました。


ふかんど

 淵、といわれれば確かにそんな雰囲気も漂う場所です。これより下流の流路は大京町児童遊園や資材置き場、四谷第六小学校の裏庭となっています。


欄干

 四谷第六小学校前の道路の南側にも欄干が残っています。欄干の下(右側)から中央線の土手の間は児童遊園になっています。
(※ 欄干は2015年現在残念ながら消滅しています。)


児童遊園

 児童遊園の南側、中央線の土手の手前で新宿御苑から流れてきた渋谷川本流に合流します。


煉瓦積みの遺構

 中央線の土手にはかつて川が潜っていたと思われる痕跡が残っています。煉瓦積みであることから、関東大震災以前のものと思われます。左側から玉川上水余水が、そして手前から新宿御苑を流れでた渋谷川が合流していました。



明治公園

 渋谷川は中央線を越えると外苑西通り沿いの明治公園内の敷地の下を南下しています。はっきりとした位置は地上からはわかりませんが、公園内を通る新宿区霞ヶ丘町と渋谷区千駄ヶ谷の境界線がちょうど川筋となっています。暗渠の川幅は2.7mほどとなっています。外延西通りの観音橋交差点はかつて渋谷川にかかっていた橋の名前に由来します。(※2015年追記:現在では新競技場の建設に伴い明治公園は消滅しています。)


観音橋交差点

かつて渋谷川に架かっていた観音橋の名が、交差点に残っています。


暗渠の道路

 川跡は神宮前2丁目に入ると外延西通りから離れ、西に進路を変えます。蛇行した、暗渠の道路が現れます。この場所より下流は、暗渠上は道路や遊歩道として利用されています。


原宿橋

 神宮前3丁目に入る地点に原宿橋の欄干が2本、暗渠の道路の両側に残されています。片方には昭和9年の刻印があります。左手の道路が開通した際に架けられた、渋谷川の橋の中では比較的新しい橋だったようです。明治時代にはちょうどこの辺りに大きな水車小屋があったようですが、今の様子からは全く想像がつきません。


1997年に訪問した際は欄干も含めて橋の片側全体が残っていました。写真を見比べると、現在の欄干は周りにコンクリートを塗り重ねて保護していることがわかります。


この原宿橋のすぐ下流側で右岸から「玉川上水原宿村分水」が合流していました。ここでいったん本流から離れ、次回はこちらの「玉川上水原宿村分水」をたどっていきます。