2016/10/06

【5−12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸

(※写真は2005年、2016年の撮影です)

 六本木通りと外苑東通りの交差する六本木交差点の南側は、大きく窪んでおり、その真ん中を「芋洗坂」が下っています。今回はその芋洗坂に沿って流れていた「吉野川」を辿ってみます。吉野川は、ここ数回にわたって取り上げてきた藪下の流れ麻布宮村町の流れがま池からの流れを合わせて麻布十番を下り古川に合流していました。
 (地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

芋洗坂

 六本木交差点から坂を下る地点に、「芋洗坂」の説明板がたっています。その由来には諸説あるといいますが、毎年秋に稲荷社の前の市で芋が売られていたため、坂沿いの川でその芋を洗っていたため、芋問屋があったためといった、芋にまつわる説と、疱瘡(天然痘)の治癒を神仏に祈願し顔を洗う「いもあらい」に関するという説に二分できます。
(2016年再撮影)

新旧の芋洗坂

 芋洗坂が現在のように六本木交差点まで繋がったのは大正期で、それまでは、飯倉の方から西進し、直角に南に曲がってから下っていくルートが芋洗坂だったようです。明治末や大正期の地形図でも、そちら側に「芋洗坂」と記されているのが確認できます。下の写真で手前左から右に通る道が現在の芋洗坂、右奥からカーブを描いて下ってきているのがかつての芋洗坂(の上部)です。なお、写真枠外左側からは饂飩坂が合流しているのですが、こちらが本来の芋洗坂だったとする説もあり、なかなかややこしくなっています。
 (2016年再撮影)

吉野川と朝日神社

 さて、芋洗い説、「いもあらい」説いずれも、坂に沿った川と関連付けられた由来となっています。港区史をみると、ここに「吉野川」と呼ばれた小川が流れていたことがわずかに記されています。ただ、明治期以降の古地図や地籍図を見てみても、坂沿いの水路はどこにも記されていません。道沿いのドブ程度の水路だったのでしょうか。
 坂の途中には「朝日神社」が鎮座しています。伝承では940年の草創、もともと弁財天だったといいますから、やはり水の湧く場所だったと思われます。16世紀には祭神が稲荷に替わり「日ヶ窪稲荷」に、そして18世紀後半には「朝日稲荷」となりました。現在のように「朝日神社」となったのは1895年(明治28年)のことです。
 (2016年再撮影)

かつての流路

 伝承では吉野川は朝日神社やその裏手の法典寺付近から湧き出した湧水を集め、道路の右側を流れていたといいます。現在ではまったくその姿を偲ぶことすらできませんが、坂道のルート自体はかつてと変っていませんので、ちょうど歩道のあたりが水路だったということになるでしょうか。
 (2016年再撮影)

合流地点と「日ヶ窪」

 坂を下りきると、正面にゲートタワービルが見えます。吉野川はその付近で藪下からの流れを合わせていました。坂に沿う谷沿い一体はかつて「北日ヶ窪町」そして南側に続く一体は「南日ヶ窪町」という地名でした(日下窪とも)。南向きのため日光をよく受け温かい土地であったことから「日南窪」と呼ばれており、これが「日ヶ窪」に転じたとの説が有力です。確かに、深い谷ですが南に大きく開けており、日当たりは良好です。
 (2016年再撮影)

鳥居坂町の丘

 日ヶ窪の谷の東側は鳥居坂町の丘となっています。谷底は標高12〜13mなのに対し、丘の上は28〜30mとかなりの標高差となっています。丘の上にはかつては広大な邸宅が並んでおり、その名残である国際文化会館の緑が擁壁の上にせり出しています。
 (2016年再撮影)

麻布十番の暗渠

 さて、此処から先は前回記事の最後に紹介した、暗渠らしい暗渠へと入っていきます。芋洗坂からの流れに、薮下の流れがま池宮村町からの流れを合わせた吉野川は、麻布十番を東に流れていきました。その水路敷は現在も麻布十番通りの裏側に残っています。ゴミが放置されていたりしてやや荒れた感じもありますが、まぎれもなく川の跡です。古川(渋谷川)の下流域の別名として赤羽川という呼び名がありますが、資料によってはこの麻布十番の流れを赤羽川と呼んでいます。
 (2005年撮影)

麻布十番と新堀川・古川

 この付近の流路の両岸はかつては「宮下町」という町名でしたが、1962年に周囲の町と統合して「麻布十番」となりました。その地名自体は江戸時代より俗称として使われていたものです。
 現麻布十番一体は、江戸時代初期までは低湿地だといいます。1675年、古川が船が入るように改修され、麻布十番には船留めが設けられます。これ以降、麻布十番の地は町として発展していくのですが、その改修の際、将監橋から一の橋までを十の工区に分け、その十番目の工区だったことから麻布十番の名がついたといわれています。なお、この改修により、一の橋より下流の渋谷川が「新堀川」、対してそれより上流が「古川」と呼ばれるようになったともいわれています。
 (2005年撮影)

流路跡の暗渠は途中でなくなってしまいますが、旧宮下町と旧新網町の境目からはクランク状( ̄|_型)に曲がって、以東は十番商店街の南側に沿っていわゆるドブ板状となって流れていました。写真の歩道右側にあたります。川は、昭和の初期には暗渠化され、現在は下水道麻布幹線となっています。
 (2005年撮影)

網代橋

 商店街から少し離れた麻布十番稲荷の敷地内の片隅には、かつて麻布十番商店街の流路に架かっていた「網代橋」の親柱が特に説明もなく放置されています。親柱には明治35年と刻まれています。(※2016年現在は説明板が設置されている)。網代町は麻布十番通りの南側の町名です。十番稲荷境内にはがま池からの流れの項で紹介したガマガエルの伝承にちなむカエルの石像もあります。
 (2005年撮影)

かまぼこ型の合流口

 水路は一の橋のたもとで古川に合流していました。その北側には、江戸時代に設けられた船留めが、麻布十番商店街の方に向かって掘り込まれていました。明治にはこの堀留は埋められましたが、吉野川の暗渠の方は現在でもその口を古川の護岸に開いています。その断面はかまぼこ型をしており、昭和初期の暗渠化時の姿をとどめています。このあたりは感潮域で、満ち潮の時には暗渠内まで水が入り込んでいます。
(2005年撮影)

一の橋公園の湧水

 一の橋の袂、一の橋ジャンクションの直下には「一の橋公園」が設けられています。この場所には、戦前までは銭湯「一の橋湯」と活動写真館「福宝館」がありました。一の橋湯の前には水が吹き上げる井戸があって名水として知られ、銭湯にもこの水を使っていたといます。現在公園には付近の地下ケーブル敷設時に湧出した水を利用した噴水が設けられています。かつての湧水と出方は違いますが、同じ水脈のものなのかもしれません。
(2005年撮影)

 噴水のひとつは古川の護岸上から水上に向かって、定時刻に噴出されるもの。噴水の下の護岸の水抜き穴からは、こちらは地下から自然にしみだしたとおぼしき湧水がじょろじょろと流れおちています。
(2005年撮影)

 もう一つは公園の地面から直接吹き出す噴水。1991年のテレビドラマ「東京ラブストーリー」のオープニングのラストシーンで、この噴水とその奥に見えるトンネル状の門が使われています。
 なお、2010年3月より、古川の川筋の地下に、洪水用の遊水地を建設する大規模な工事が始まり、一の橋公園は工事現場となり、立ち入ることができなくなっています(2016年完了予定)。
 (2005年撮影)

柳の井戸

 つづいて、麻布十番商店街の南方にある「柳の井戸」を紹介しましょう。麻布山の東側山腹に位置する麻布山善福寺は、空海によって824年に開かれたと伝えられる、都内でもかなり古い寺院のひとつです。もともとは真言宗の寺院でしたが鎌倉時代以降は浄土真宗となっています。境内の墓地の一角には戦災による被災にも枯れることなく樹齢700年と都内最古を誇る銀杏の木「逆さ銀杏」があります。
 古くから名水として知られた「柳の井戸」は山門手前の参道沿いの柳の木の下にあります。(※2016年現在、井戸背後の柳は無くなっています)
 (2005年撮影)

井戸は弘法大師が地面を錫杖で突いたところ湧き出したとの伝承が残っており、今でも石で覆われた井戸から水が自噴しています。井戸全体は、石碑の建つ左側(この下に何があるのかは不明)、水の湧き出し口と水槽のある中央部、洗い場のようなスペースとそこからの水路が設けられた右側の、3つの構造に分かれています。
 (2016年再撮影)

 井戸の湧き出し口です。絶え間なくちょろちょろと、澄んだ水が自然に流れ出しています。2011年の調査では、その量は1分あたり11〜17リットル。現在の水量からはあまり想像出来ませんが、関東大震災や東京大空襲の際には貴重な水源として近隣の住民の困窮を救ったそうです。
 (2016年再撮影)

 柳の井戸から溢れでた水は、善福寺の参道の側溝を伝って流れていきます。かつてその先は、網代町内を流れていた水路へと繋がり、吉野川に合流していました。今では区画整理によりその水路の痕跡は全く失くなり、湧水は残念ながら下水へと落ちているようです。
(2016年再撮影)

次回は、一の橋の北側で古川に合流していた、麻布狸穴町の流れを追ってみます。



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