2016/10/16

【5−13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水路?)

(※写真は2016年及び2005年撮影です)

 一の橋の北側に位置する麻布狸穴町は三方を丘に囲まれた窪地となっています。今回はこの窪地を流れていた水路の痕跡を追ってみます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

今も残る水路跡

 飯倉片町の交差点から、外苑東通りを少し東に進むと、麻布郵便局の立派な建物が見えてきます。その手前の外務省外交史料館向かい、外苑東通りから南側の麻布台3丁目に入る道を覗くと、下り坂になっています。今回辿る水路はこの付近から始まっていました。
(2016年再撮影)

 江戸時代後期の古地図を見ると、現在の外苑東通りに対して直角に南向きの水路が現れ、少し進んで東に曲がっています。明治時代の地図でも全く同じ位置に水路が描かれています。上の地図にそのルートをプロットしてあります。
 坂の下の窪地は東に向かっています。写真の道路から直接は入れませんが、狸穴町側から回り込むと、古地図のルートそのままに、荒れた細長い空地が残っています。
(2016年再撮影)

 細長い空地の下には今でも下水道が通っています。空地の東側の出口には、未舗装の地面からマンホールが突き出しています。
(2016年再撮影)

そしてその先は階段となり、一気に麻布狸穴町への谷底へと落ちていきます。
(2016年再撮影)

青山上水

 かつて、現外苑東通りには「青山上水」が流れていました。青山上水は1660年(万治3年)、玉川上水より分水された上水路です。玉川上水の開渠部終点である四谷大木戸から、台地の尾根上を南東へと進み、赤坂、飯倉、狸穴町で水路を分けつつ芝の増上寺付近まで流れていました。標高段彩図にプロットしてみると、玉川上水やそこからの他の分水と同様、高いところを縫うようなルートをとっていたのがよくわかります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

 上水は1722年(亨保7年)、三田上水などと同時に廃止されていますが、その後も非公式に水が流れ続け、生活用水や農業用水として使われていたといいます。ただ、大部分が埋樋だったこともあって地図上に姿を現すこともなく、廃止後の実態はいまだによくわかっていません。
 1881年(明治14年)には、青山上水のルートの大部分をそのまま引き継いで、麻布区により麻布水道が敷設されます。ただ、漏水などにより維持困難になって、1885年には東京府の水道に編入され短命に終わりました。

狸穴町支流と青山上水の関係

 谷底から階段を見上げたところです。2つに分かれた階段の高低差は10mに及びます。かつての水路は滝のように落ちていたのでしょうか。また、写真からはわかりづらいかと思いますが、奥の階段より左側の方が低くなっており、水路がやや高いところを人工的に通されていたこともわかります。(冒頭の段彩図参照)
 青山上水の分水のひとつは、狸穴坂を下り、芝北新門前町に至っていたといいます。坂を降った後の流路は、狸穴町支流のルートと極めて接近しています。
一方、狸穴町支流のスタート地点は、現外苑東通りからと、あたかも青山上水から分かれているかのようにとれるようなかたちとなっており、またこのように不自然なルートを通って谷底に落とされています。このことから考えれるのは、

  1. 青山上水の余水や、高台の排水を落とした水路の可能性
  2. 上水の廃止後、非公式利用されていた時代に、農業用水としてこの水路に水が引かれていた可能性
  3. もともと狸穴坂沿いではなく、こちらを経由して流れていた可能性

です。いずれにせよ、狸穴町支流を流れる水は、青山上水と少なからず関係があったように思えます。
(2016年再撮影)

続く水路跡

 かつての水路跡は、駐車場と民家の境目となり、その先はマンション敷地の外縁となって続いているようですが、立ち入ることはできません。
(2016年再撮影)

 南東側に回りこんでみると、建物とブロック塀に挟まれた細長い空地が見つかります。
(2016年再撮影)

 未舗装の路面には、かなり古そうな鉄のマンホールがありました。建物も塀もマンホールの縁の上にはみ出しており、水路跡はもともとはもう少し幅があったと思われます。
(2016年再撮影)

 空地の出口です。ここが水路だったと知らなければ、不思議な空間にしか思えないでしょう。かつて流路は奥からここにでて、左(南)へと曲がり流れていました。
(2016年再撮影)

生き残った「狸穴町」

 麻布狸穴町は、狸穴坂と鼠坂に挟まれた谷底の町です。流路はその真中を通る写真の道に沿って、手前から奥(南)へと流れていました。狸穴の地名はニホンアナグマ(マミ、猯)の住む穴があったことに由来し、やがて猯と狸が混同されて狸穴になったの説が有力です。地形からは、アナグマが穴を掘りやすい崖や斜面があったことが容易に想像されます。
 1962年の住居表示法の施行以降、港区内の多くの町名が失われ、味気のない地名に統合されていきます。たとえば「六本木」には実に20以上もの町が統合されています。そんな中で狸穴町も、まず狸穴坂の東側にあるロシア大使館エリアが麻布台に統合されてしまいます。残ったエリアも麻布台3丁目になる予定でしたが、住民の根強い反対により、何とかその地名が存続されることとなりました。港区内で旧町名が残ったのは狸穴町、そして隣接する麻布永坂町のふたつだけでした。
(2016年再撮影)

 さて、水路が失くなったのはいったいいつ頃だったのでしょう。路面のマンホールを見てみると、蓋こそ新しいものの、蓋に刻まれている敷設年度は1933年と、昭和初期に下水が設けられたことがわかります。少なくともこれ以前に水路は暗渠化・下水化されたのでしょう。
(2016年再撮影)

鼠坂下の失われた湧水と狸穴公園

 水路跡の道にはやがて西側から鼠坂(下写真)を下ってきた道が合わさります。かつての水路跡はここでいったん住宅地の一角の中に姿を消します。
 東京都の1989年の調査では、鼠坂下にあたる狸穴町28番地の民家に湧水があり、庭の池に利用されているとのことでした。現在28番地という地番自体がなくなっていて正確な場所はわからないのですが、おそらくそうであったであろう一角は、駐車場や民家の庭先になっているものの、池はなさそうでした。港区の最近の調査でも確認できずとされており、幻の湧水となってしまいました。
(2005年撮影)

 水路跡は狸穴公園の東側から、再び道路として辿ることができます。写真は狸穴公園で、奥に見えるのが、鼠坂へと続く道、その右側の木の茂る一角が、かつて湧水があったと思われる場所です。
(2005年撮影)

 公園の西側の斜面には狸穴稲荷の祠があります。狸と狐、そして鼠と、なかなか賑やかな一角です。
(2016年再撮影)

下流部の流路

 狸穴公園の南側の道路です。わずかに窪んでいるのがわかります。左手前が狸穴坂からの道、そして水路は右手から左奥の道沿いに流れていました。
(2016年再撮影)

 古地図を見ると、江戸時代にはすでに幅の広い道路で、道の両側に水路が通っていたようです。位置関係でいえば、右側が狸穴町の流れ、左側が青山上水の分水の流れとなりますが、実際にはどうだったのでしょう。
(2016年再撮影)

 道はやがて一の橋JCT付近へとたどり着きます。高速道路の下に、古川が流れています。青山上水は少し手前で東(左)へ、狸穴町の流れは手前を左から右へと、まっすぐ古川に注いでいたようです。右に写るニッシンスーパーは二棟に分かれているのですが、その間がかつての水路だったようです。


 次回以降は渋谷川が笄川の流れを合わせて古川へとその名を変える天現寺橋へと戻り、古川本流を下っていきます。



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