2015/11/23

【1-3】渋谷川上流(2)玉川上水余水吐〜本流原宿橋まで

(※写真は特に記載のない限り、2005年撮影のものです)

玉川上水

 玉川上水は、現羽村市の多摩川に設けられた取水堰から、現新宿区四谷の四谷大木戸までの約43kmを結ぶ江戸の上水道として1653年に開通しました。新宿御苑の北東角にあたる四谷大木戸より先は地下に埋めた石樋や木樋で市内に配水され、市民の飲料水として利用されました。
四谷大木戸に置かれた水番所では、毎日水位の測定・水量の調節をし、余った水や大雨の後の濁り水を南側の谷を利用した水路に流していました。これが渋谷川のもうひとつの水源となりました。この上水道は1898年に淀橋浄水場が完成し、1901年上水の市内給水が停止となるまで利用されていました。
 水番所跡には現在石碑が2つ立っています。写真は大きい方の碑「水道碑記」(すいどういしぶみのき)で、高さは4m60cmと巨大です。最近まで上水の設備が一部残っていたようですが、新宿トンネルの建設でなくなってしいました。


玉川上水余水路と三菱鉛筆

 新宿トンネルのすぐ南側から、新宿御苑東側に沿って玉川上水余水路の敷地が残っています。森に囲まれ鬱蒼とした草叢の下には約2メートル四方の暗渠が埋まっています。この場所から少し下流の右岸で、新宿御苑内の玉藻池へ導水する水路が分かれていたようです。また、明治時代には左岸に多武峰内藤神社の西側を通る水路が分水されていました。もともとは御苑の敷地からこの地に居地を移した内藤家が、米搗きのための水車を廻すための分水でしたが、明治20年頃にはこの水車を動力源として日本最初の鉛筆工場である真崎鉛筆の工場が設立されました。この工場から発足した会社はのちに「三菱鉛筆」となります。分水路は水車を廻した後再び余水路に合流していました。

 ※2015年追記:玉川上水余水路については、こちらの記事に詳しく紹介しましたのでご参照ください
 →「新宿の秘境・玉川上水余水吐跡の暗渠をたどる」(みちくさ学会2010.11.17掲載記事)


玉川上水余水路と玉藻池

 水路後は特に何に利用されるでもなく、雑草が生い茂っています。コンクリートの柵の向こう側は新宿御苑です。かつて玉藻池からの流路が並行して流れ、この近辺で余水路に合流していました。余水路はもともと「千駄ヶ谷」の支谷を利用しており、御苑内の玉藻池はその谷頭にあたります。ただし、池自体は前にも述べた通り江戸時代、庭園「玉川園」の造時に余水の水をひいてつくられた人工池です。


塞がれたトンネルと沖田総司

 外苑西通りを越えるところに、暗渠の上にかかるアーチを塞いだ穴がありました。アーチの上は行き止まりのトマソン的な空間になっています。明治期の地図と比較すると、もともとは御苑の門へ右側(北東)からアプローチする小道の一部分だったように見えます。アーチの場所にはかつて池尻橋という橋がかかっていたそうです。そしてこの橋のそばの植木屋の納屋で、沖田総司が最期を迎えたとのことです。


石橋

 外苑西通りの東側には石組みの立派な橋が残っています。この橋の下辺りは「ふかんど」と呼ばれる淵で、東側から短い支流が合流していました。


ふかんど

 淵、といわれれば確かにそんな雰囲気も漂う場所です。これより下流の流路は大京町児童遊園や資材置き場、四谷第六小学校の裏庭となっています。


欄干

 四谷第六小学校前の道路の南側にも欄干が残っています。欄干の下(右側)から中央線の土手の間は児童遊園になっています。
(※ 欄干は2015年現在残念ながら消滅しています。)


児童遊園

 児童遊園の南側、中央線の土手の手前で新宿御苑から流れてきた渋谷川本流に合流します。


煉瓦積みの遺構

 中央線の土手にはかつて川が潜っていたと思われる痕跡が残っています。煉瓦積みであることから、関東大震災以前のものと思われます。左側から玉川上水余水が、そして手前から新宿御苑を流れでた渋谷川が合流していました。



明治公園

 渋谷川は中央線を越えると外苑西通り沿いの明治公園内の敷地の下を南下しています。はっきりとした位置は地上からはわかりませんが、公園内を通る新宿区霞ヶ丘町と渋谷区千駄ヶ谷の境界線がちょうど川筋となっています。暗渠の川幅は2.7mほどとなっています。外延西通りの観音橋交差点はかつて渋谷川にかかっていた橋の名前に由来します。(※2015年追記:現在では新競技場の建設に伴い明治公園は消滅しています。)


観音橋交差点

かつて渋谷川に架かっていた観音橋の名が、交差点に残っています。


暗渠の道路

 川跡は神宮前2丁目に入ると外延西通りから離れ、西に進路を変えます。蛇行した、暗渠の道路が現れます。この場所より下流は、暗渠上は道路や遊歩道として利用されています。


原宿橋

 神宮前3丁目に入る地点に原宿橋の欄干が2本、暗渠の道路の両側に残されています。片方には昭和9年の刻印があります。左手の道路が開通した際に架けられた、渋谷川の橋の中では比較的新しい橋だったようです。明治時代にはちょうどこの辺りに大きな水車小屋があったようですが、今の様子からは全く想像がつきません。


1997年に訪問した際は欄干も含めて橋の片側全体が残っていました。写真を見比べると、現在の欄干は周りにコンクリートを塗り重ねて保護していることがわかります。


この原宿橋のすぐ下流側で右岸から「玉川上水原宿村分水」が合流していました。ここでいったん本流から離れ、次回はこちらの「玉川上水原宿村分水」をたどっていきます。


1 件のコメント:

  1. こんにちは。ふかんどの石橋のところに久しぶりに行ってみたのですが、上流側の欄干の下の駐車場があったところにマンションが建っていてだいぶ景色が変わっています。そのおかげで道路と建物の間に空間が残され、以前より川跡っぽさが出ていました。かつてより流路がはっきりした感じになってますよ。

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