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2016/11/26

もくじ

順次公開していきます。公開している項目には記事へのリンクがついています。

はじめに
東京の水覚書 →2015/11/19公開

第1部 渋谷川水系の川と暗渠をたどる
1章. 渋谷川上流部(穏田川)とその水系
【1-1】渋谷川上流部とその水系の概要 →2015/11/21公開
【1-2】渋谷川上流(1)「千駄ヶ谷」(新宿御苑)の源流 →2015/11/21公開
【1-3】渋谷川上流(2)玉川上水余水吐〜本流原宿橋まで →2015/11/23公開
【1-4】玉川上水原宿村分水(1)原宿村分水、千駄ヶ谷分水 →2015/11/25公開
【1-5】玉川上水原宿村分水(2)神宮北池の流れと原宿村分水下流 →2015/11/27公開
【1-6】渋谷川上流(3)本流 原宿橋〜渋谷駅まで →2015/11/29公開
【1-7】明治神宮「清正の井」からの川と東池からの川 →2015/12/01公開

2章. 宇田川とその水系
【2-1】宇田川水系の概要 →2015/12/04公開
【2-2】河骨川(1)上流部 →2015/12/04公開
【2-3】河骨川(2)下流部 →2015/12/06公開
【2-4】宇田川初台支流(初台川)(1)上流部 →2015/12/09公開
【2-5】宇田川初台支流(初台川)(2)下流部 →2015/12/11公開
【2-6】宇田川富ヶ谷支流 →2015/12/14公開
【2-7】宇田川(1)狼谷の上流部 →2015/12/17公開
【2-8】宇田川(2)上原支流と宇田川中流部 →2015/12/20公開
【2-9】宇田川(3)神山町の支流と宇田川下流部 →2015/12/23公開
【2-10】宇田川松濤支流・三田用水神山口分水と神泉谷支流 →2015/12/27公開

3章. 渋谷川中流部とその水系
【3-1】渋谷川中流部水系の概要 →2016/1/7公開
【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流 →2016/1/7公開
【3-3】三田用水鉢山口分水 →2016/1/11公開
【3-4】三田用水猿楽口分水 →2016/1/14公開
【3-5】いもり川 →2016/1/17公開
【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2 →2016/1/22公開

4章. 笄川とその水系
【4-1】笄川水系の概要 →2016/1/30公開
【4-2】笄川上流部 →2016/1/30公開
【4‐3】笄川長者丸支流 →2016/2/3公開
【4-4】笄川根津邸支流 →2016/2/7公開
【4-5】蛇が池支流、龍土町支流、笄川中流部 →2016/2/13公開
【4-6】笄川下流部と高樹町支流、宮代町支流 →2016/2/19公開

5章. 古川(渋谷川下流部)とその水系
【5-1】古川水系の概要 →2016/3/30公開
【5-2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流) →2016/3/30公開
【5-3】三田用水白金分水(1)上流部と自然教育園の流れ →2016/4/17公開
【5-4】三田用水白金分水(2)伊達跡の支流と蜀江台方面からの支流 →2016/4/27公開
【5-5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡 →2016/5/18公開
【5-6】白金三光町支流 →2016/5/27公開
【5-7】玉名川(1)三田用水分水地点から覚林寺まで →2016/6/6公開
【5-8】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部 →2016/6/17公開
【5-9】麻布宮村町支流(1)がま池からの流れ →2016/7/7公開
【5-10】麻布宮村町支流(2)宮村町の湧水の流れ →2016/7/15公開
【5-11】藪下の支流 →2016/9/29公開
【5-12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸 →2016/10/6公開
【5-13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水?) →2016/10/16公開
【5-14】古川(1)天現寺橋〜古川橋 →2016/11/21公開
【5-15】古川(2)二之橋〜河口 →2016/11/26公開


第2部 鮫川・桜川の暗渠をたどる
第3部 水窪川・弦巻川の暗渠をたどる




2016/01/07

【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流

(写真は特記ない限り2005年撮影のものです)

まずは今回辿る範囲の地図を。点線は暗渠・川跡、実線は川です。また、青色は自然河川、赤色は上水・用水を示しています。


ビルの谷間

 渋谷駅南東の稲荷橋から、渋谷川は地上に姿を現します。ただ、両岸をビルに挟まれ、橋以外からは川を見ることはできません。水もほとんど流れておらず、建物にも背を向けられ、忘れられた遺構のような佇まいです。ビルと護岸の間のわずかな隙間にしぶとく生えている木々の緑だけが、川らしさをとどめています。

涸れている川

 稲荷橋から数えて4つめの徒歩橋から渋谷川の上流方向を見た写真です。現在、渋谷駅以北の暗渠区間は下水道幹線として下流部とは切り離されており、流れる水は渋谷駅駅前の地下に染み出す水や雨水だけとなっているため、川の水はほとんどなく、流れは水溜りのようになっています。

黒鍬谷の流れ

 かつては徒歩橋の上流側で、左岸(東)側から小さな流れが合流していました。この川は黒鍬谷と呼ばれる谷筋に湧き出した水を集め、金王八幡宮の東側を流れていました。八幡宮は1092年にこの地に鎮座しました。渋谷川の谷と黒鍬谷に挟まれた台地の端にあり、かつては数カ所に湧水や池のある水の豊かな土地だったようです。鎮座と同時に渋谷氏が隣接して館を構え居城としました。この城はのちには「渋谷城」と呼ばれ、また八幡宮は渋谷金王丸常光(1141〜1185)の名声により、金王八幡宮と呼ばれるようになったといいます。

八幡宮付近の小川を、大岡昇平は「幼年」で次のように描写しています。
「石段の下には溝があり、それを石橋で渡った先に、石畳の参道が続いていた」「石段下の溝に水はあまりなかったが、その下が神社の境内を出て細い石畳の細い道に沿うようになると、流水が音を立てるほど豊かになる。この辺の家の中にある湧泉の影響らしい」
下の写真は文中の「石段」正面側からみた八幡宮です。川は手前の道路を右手前から左奥に向かって流れていて、石段の前のところに文中の「石橋」が架かっていました。
(2015年再撮影の写真)

石橋の名残

 文中に登場する石橋は今ではなくなっていますが、そのパーツは現在でも神社の境内の各所に転用されて残っています。
(2015年再撮影の写真)

今も残る暗渠

 黒鍬谷は、かつては深い谷だったようですが、明治初期の埋立て、そして戦後の更なる埋立てで、今ではだいぶ浅くなったといいます。それでもたどってみると谷筋であることははっきりとわかります。その谷底をたどっていくと、六本木通りを越えて青山通りの南側まで行き着きます。そこには現在でも「水路敷」扱いとなっている、未舗装の細長い空き地が残っています(写真の塀沿いの砂利敷の部分。奥から手前に向けて流れていた)。この区間は1940年代まで、水が流れていたそうです。
(2015年再撮影の写真)

清流復活事業

 再び渋谷川を下っていきます。水量が激減し水質悪化していた渋谷川に対し、1995年より、落合水再生センター(下水処理場)から高度処理した再生水を送る「清流復活」が図られています。1日2万立方メートルの水が並木橋下より注ぎ込んでいます。処理水を「清流」と言い切ってしまうのはどうかという気もしますが、ここから下流は淀むことなくある程度の水量が流れています。17kmもの地下導水管により、渋谷川の他に目黒川と呑川にも導水されています。もともとはすべて神田川に流されていた水です。

再生水の合流と鉢山口分水

並木橋の袂から再生水が流れ出ています。この場所ではかつて三田用水鉢山口分水が合流していました。こちらについては別項で紹介します。

庚申橋と庚申水車

 写真は庚申橋より下流方向を眺めたものです。橋の袂には庚申塔があり、古くからの交通の要所だったことが窺われます。
 江戸時代から明治時代にかけて、渋谷川の流域には数多くの水車が架けられていました。それらは江戸期には精米用として、明治に入ると撚糸や製綿などの工業の動力として利用されていました。渋谷川本流は、玉川上水からの余水が流されていたため水量はあったものの、傾斜が少なく十分な動力を引き出すための落差が得られなかったため、堰をを設けるなどの工夫がなされました。
 庚申橋下流側では川幅5mほどのところに高さ1.7mほどの堰を設けて右岸に細い水路を引き、水流を強めて水車をまわしていました。水車の直径は5m強、63本の杵を動かし大正時代半ばまで、米を搗いていました。


地下鉄日比谷線の湧水

 各所の橋から川面を覗きながら下っていきます。途中比丘橋付近では、三田用水猿楽口分水が合流していました。こちらも別項にて改めて紹介します。
 JR恵比寿駅の東側、駒沢通りの通る渋谷橋を過ぎた恵比寿東公園(通称タコ公園)の脇では、2004年9月より地下鉄日比谷線のトンネル内の湧水を流入させています。一日400立方メートルとわずかな量ですが、こちらは再生水と違って一応「清流」といえるでしょう。護岸の小さな穴から染み出ているような水がそれなのでしょうか。ここから川底が深く掘り下げられています。

渋谷橋から(1997年)

 1997年に、同じ場所を上流側の渋谷橋から見た風景です。護岸改修前で、川は今よりも浅く川沿いの緑も濃く、右岸からは湧き水が滲み出しているようです。
(1997年撮影)

昭和初期の護岸工事

渋谷駅前の宮益橋から天現寺橋にかけての渋谷川は、1929年〜31年にかけて鉄筋コンクリートの護岸とコンクリート張りの川底を持つ水路に改修されました。1990年代半ばまでの渋谷川は、ほぼその当時のままの姿で流れていました。下の写真は1997年に、一本橋から下流方向を眺めたものです。上流の暗渠化で水量が減ったため川底の中央に溝を作って水が流れるようにされてはいますが、他は戦前の改修のままで、川沿いにも緑が残っています。
(1997年撮影)

これから先の渋谷川を下って行く前に、次回以降は、ここまで流れ込んでいた幾つかの支流を紹介していきます。

2015/11/29

【1-6】渋谷川上流(3)本流 原宿橋〜渋谷駅まで

(※写真は特に記載のない限り、2005年撮影のものです)

もうひとつの支流暗渠

さて、玉川分水原宿村分水の合流地点、原宿橋跡から、再び渋谷川を開渠になる地点まで下って行くことにします。原宿橋の左岸側(東側)からは、かつてはもうひとつ別の支流が合流しており、車止めのある細い路地として残っています。
 ※2015年追記:こちらについては2010年に記事にしていますので、ご参照下さい。下の写真はその際撮影したものです。



穏田の水車

 この付近の渋谷川は、一帯の地名から穏田(おんでん)川と呼ばれていました。写真の場所近辺には「村越水車」があり、明治中頃は直径6.5mの大きな水車に杵を57本も連結して米搗きを行っていました。水車は川が蛇行する地点(写真で暗渠が右に曲がる突き当たりの場所)に、蛇行をショートカットして直線で進む水路をつくり、そこに設けられていました。これは水の勢いを強めて水車の能力をたかめるための工夫でした。渋谷川沿いにはこのように蛇行地点を利用した水車が多かったそうです。
 葛飾北斎の冨嶽三十六景の1枚に「隠田の水車」はこの水車か、もしくはこれより下流、穏田神社の傍にあった「鶴田水車」(忠左衛門の水車)のいずれかを描いたものといわれています。



キャットストリートと裏原宿

 渋谷川上流部は1963年に暗渠化、67年に遊歩道・遊び場として整備されました。そしてその後、誰ともなく「キャットストリート」と呼ばれるようになりました。もともとは表参道よりも下流(南)側を呼んでいたようですが、最近では原宿橋の辺りまでさかのぼって呼ばれているようです。由来には諸説ありますが、1980年前後に、暗渠沿いの現渋谷教育学園の生徒が、猫が多いため「猫通り」と呼び始めたことから広まったというのが有力な説とされています。確かに暗渠を歩いているとたいてい猫に出会います。
 下の写真は1996年末の渋谷川暗渠上の様子です。この頃まではまだ遊び場として砂場やブランコが設定されている区間が各所にありました。




 1996年以降、暗渠跡の遊歩道は再整備されて、明るい車道となり、暗渠沿いには個性的なアパレルショップや雑貨屋が増えました。特に表参道以北明治通り以東の一帯は、90年代後半以降「裏原宿」とも呼ばれるようにもなりました。


参道橋と「鐙の池」

 表参道は明治神宮への参道として大正9年に開通しましたが、それ以前は通り付近の地形は今とはずいぶん異なっていました。神宮前5-7にあるユニオンチャーチの辺りを源頭とし神宮前小学校にかけて深く細長い谷があり、そこには「鐙の池」と呼ばれる湧水池がありました。池を囲む一帯は浅野山と呼ばれる広島藩浅野家屋敷の森となっていて、鐙の池の西側にも同じように細長い池があったようです。
 谷は表参道が造成された際に池ごと埋め立てられましたが、豊富な湧水量を誇っていたため工事は困難を極めたそうです。その後つくられた神宮前小学校のプールは湧水を利用していましたが、おそらくその湧水は埋められた鐙が池の谷の湧水が地下を通って湧出していたと推定されています。地下鉄千代田線の建設時にも大量の湧水があったことが記録に残っています。

 表参道が渋谷川を渡る地点には「参道橋」が架けられました。その欄干は現在でも残されています。参道橋の手前では、明治神宮南池からの小川が合流していました。こちらについては次回に辿ることとします。


参道橋より下流を望む

 参道橋下流部も最近遊歩道が再整備され、妙に小綺麗になっています。「キャットストリート」とはいうものの猫が出没できる雰囲気ではありません。



蛇行跡

 一方で、小奇麗な暗渠の左岸側には、蛇行跡の暗渠が残っています。こちらは昭和初期に渋谷川が改修された際に、流路をまっすぐにちかい形に整備したときの名残です。こちらにはうらびれた暗渠っぽさが漂っています。


護岸

 遊歩道沿いに一段低くなった道が続いています。おそらくもともとは川沿いの道で、ガードレールの下のコンクリート壁は護岸だったのではないでしょうか。
(※2015年追記:かつての護岸そのものではなく、その上に追加したもののようです)


鶴田の水車

 穏田神社を過ぎると暗渠の川幅が広くなり、道の真ん中に児童遊園が現れます。かつて暗渠上には各所に遊具が設置されていましたが、現在残るのはここだけです。近所の子供たちが遊んでいました。100年前は遊具ではなくここに流れていた川に入って遊んでいたのでしょう。
 この近辺にはかつて「鶴田の水車」がありました。この水車は18世紀後半に設置された古いもので、渋谷川に高さ3mもの堰を造って左岸側に水路を分け、水車を廻していました。明治後期には水車の動力を使って真鍮の延板を作っていたそうです。この場所が穏田村であることから、先の村越水車ではなくこちらが北斎の描いた「隠田の水車」だとする説もあります。


消火用給水孔

 児童遊園の手前、かつての八千代橋の床版の上には、東京府の紋章が入った「消火用給水孔」が2箇所残っています。戦前、川がまだ開渠だったころの設備と思われます。川沿いから水を取るのが困難で、欄干越しだとホースが折れてしまうので橋上に設置したのでしょうか。


※2015年追記:この「消火用給水孔」の謎について、「マンホール・下水・暗渠 ~rzekaの都市観察」というサイトを開かれているrzekaさんが、丹念な調査に基づく検証結果をまとめられております。以下にリンクさせて頂きます。

→「【マンホールナイト7】消火用吸水孔の新事実」

宮下橋

 渋谷川が明治通りを越えるところにはかつて宮下橋が架かっていました。現在落書きだらけの欄干がひっそりと残されています。



宮下公園脇

 明治通りを越えた先は幅7.5m、高さ3.6mの暗渠となって宮下公園の脇を通っています。暗渠沿いにはホームレスの人々のブルーシートハウスが林立しています。この先では宇田川(の暗渠)と合流しています。


姿を現す渋谷川

 東急百貨店東横店の地下を通って渋谷駅の南東側で暗渠の区間は終り、渋谷川は地上に姿を現します。水はほとんど流れていません。現在の渋谷駅東口のバスターミナルのところには18世紀末より「宮益水車」が設置されており、明治初期にはこの水車の利益金で現在再開発中の東急文化会館の敷地にあった「渋谷小学校」の運営をしていたそうです。(なお、渋谷駅は今よりも南寄り、埼京線ホームのある辺りにあった)
 暗渠が地上に出るところには「稲荷橋」が架かっています。現在国道246号線が通っている敷地にはかつて、橋の名前の由来となった「川端稲荷(田中稲荷)」があって、銀杏などの木々が生い茂っていました。大正期この近辺に住んでいた大岡昇平の「幼年」には

「当時は境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落としていた。「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、。荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた」

と書かれています。また、ちょうど写真に写っている辺りの川上には、大正期には川を跨いだ「川上家屋」が何軒か建っていたそうです。

※2015年追記:現在渋谷駅周辺の再開発に伴い、渋谷川の暗渠にも大きな変化が起こっています。詳細はこちらの記事をご参照ください
「渋谷川暗渠、2度めの移設」(2014/2/6公開記事)


次回は参道橋付近で合流していた、明治神宮南池を水源とする川を辿ってみます。



2015/11/23

【1-3】渋谷川上流(2)玉川上水余水吐〜本流原宿橋まで

(※写真は特に記載のない限り、2005年撮影のものです)

玉川上水

 玉川上水は、現羽村市の多摩川に設けられた取水堰から、現新宿区四谷の四谷大木戸までの約43kmを結ぶ江戸の上水道として1653年に開通しました。新宿御苑の北東角にあたる四谷大木戸より先は地下に埋めた石樋や木樋で市内に配水され、市民の飲料水として利用されました。
四谷大木戸に置かれた水番所では、毎日水位の測定・水量の調節をし、余った水や大雨の後の濁り水を南側の谷を利用した水路に流していました。これが渋谷川のもうひとつの水源となりました。この上水道は1898年に淀橋浄水場が完成し、1901年上水の市内給水が停止となるまで利用されていました。
 水番所跡には現在石碑が2つ立っています。写真は大きい方の碑「水道碑記」(すいどういしぶみのき)で、高さは4m60cmと巨大です。最近まで上水の設備が一部残っていたようですが、新宿トンネルの建設でなくなってしいました。


玉川上水余水路と三菱鉛筆

 新宿トンネルのすぐ南側から、新宿御苑東側に沿って玉川上水余水路の敷地が残っています。森に囲まれ鬱蒼とした草叢の下には約2メートル四方の暗渠が埋まっています。この場所から少し下流の右岸で、新宿御苑内の玉藻池へ導水する水路が分かれていたようです。また、明治時代には左岸に多武峰内藤神社の西側を通る水路が分水されていました。もともとは御苑の敷地からこの地に居地を移した内藤家が、米搗きのための水車を廻すための分水でしたが、明治20年頃にはこの水車を動力源として日本最初の鉛筆工場である真崎鉛筆の工場が設立されました。この工場から発足した会社はのちに「三菱鉛筆」となります。分水路は水車を廻した後再び余水路に合流していました。

 ※2015年追記:玉川上水余水路については、こちらの記事に詳しく紹介しましたのでご参照ください
 →「新宿の秘境・玉川上水余水吐跡の暗渠をたどる」(みちくさ学会2010.11.17掲載記事)


玉川上水余水路と玉藻池

 水路後は特に何に利用されるでもなく、雑草が生い茂っています。コンクリートの柵の向こう側は新宿御苑です。かつて玉藻池からの流路が並行して流れ、この近辺で余水路に合流していました。余水路はもともと「千駄ヶ谷」の支谷を利用しており、御苑内の玉藻池はその谷頭にあたります。ただし、池自体は前にも述べた通り江戸時代、庭園「玉川園」の造時に余水の水をひいてつくられた人工池です。


塞がれたトンネルと沖田総司

 外苑西通りを越えるところに、暗渠の上にかかるアーチを塞いだ穴がありました。アーチの上は行き止まりのトマソン的な空間になっています。明治期の地図と比較すると、もともとは御苑の門へ右側(北東)からアプローチする小道の一部分だったように見えます。アーチの場所にはかつて池尻橋という橋がかかっていたそうです。そしてこの橋のそばの植木屋の納屋で、沖田総司が最期を迎えたとのことです。


石橋

 外苑西通りの東側には石組みの立派な橋が残っています。この橋の下辺りは「ふかんど」と呼ばれる淵で、東側から短い支流が合流していました。


ふかんど

 淵、といわれれば確かにそんな雰囲気も漂う場所です。これより下流の流路は大京町児童遊園や資材置き場、四谷第六小学校の裏庭となっています。


欄干

 四谷第六小学校前の道路の南側にも欄干が残っています。欄干の下(右側)から中央線の土手の間は児童遊園になっています。
(※ 欄干は2015年現在残念ながら消滅しています。)


児童遊園

 児童遊園の南側、中央線の土手の手前で新宿御苑から流れてきた渋谷川本流に合流します。


煉瓦積みの遺構

 中央線の土手にはかつて川が潜っていたと思われる痕跡が残っています。煉瓦積みであることから、関東大震災以前のものと思われます。左側から玉川上水余水が、そして手前から新宿御苑を流れでた渋谷川が合流していました。



明治公園

 渋谷川は中央線を越えると外苑西通り沿いの明治公園内の敷地の下を南下しています。はっきりとした位置は地上からはわかりませんが、公園内を通る新宿区霞ヶ丘町と渋谷区千駄ヶ谷の境界線がちょうど川筋となっています。暗渠の川幅は2.7mほどとなっています。外延西通りの観音橋交差点はかつて渋谷川にかかっていた橋の名前に由来します。(※2015年追記:現在では新競技場の建設に伴い明治公園は消滅しています。)


観音橋交差点

かつて渋谷川に架かっていた観音橋の名が、交差点に残っています。


暗渠の道路

 川跡は神宮前2丁目に入ると外延西通りから離れ、西に進路を変えます。蛇行した、暗渠の道路が現れます。この場所より下流は、暗渠上は道路や遊歩道として利用されています。


原宿橋

 神宮前3丁目に入る地点に原宿橋の欄干が2本、暗渠の道路の両側に残されています。片方には昭和9年の刻印があります。左手の道路が開通した際に架けられた、渋谷川の橋の中では比較的新しい橋だったようです。明治時代にはちょうどこの辺りに大きな水車小屋があったようですが、今の様子からは全く想像がつきません。


1997年に訪問した際は欄干も含めて橋の片側全体が残っていました。写真を見比べると、現在の欄干は周りにコンクリートを塗り重ねて保護していることがわかります。


この原宿橋のすぐ下流側で右岸から「玉川上水原宿村分水」が合流していました。ここでいったん本流から離れ、次回はこちらの「玉川上水原宿村分水」をたどっていきます。


2015/11/21

【1-2】渋谷川上流(1)「千駄ヶ谷」(新宿御苑)の源流

「千駄ヶ谷」の源流

 渋谷川は現在新宿御苑内の庭園として整備され上の池・中の池・下の池が連なっている谷「千駄ヶ谷」に源流を発する川です。もともとは流量の少ない川でしたが、江戸時代に玉川上水が四谷大木戸まで開通してからはその余水も受けるようになりました。余水とは御苑の東で合流しています。このことから、上流部では「余水川」とも呼ばれていたようです。「せんだがや」とは「千駄萱」、つまり大量の萱の生える湿地だったといいます(駄は馬一頭が運べる荷物の単位)。
 一帯は江戸時代に徳川家家臣の内藤家の領有となり、その一角に1772年、玉藻池を中心とする庭園「玉川園」がつくられました。この「玉藻池」を渋谷川の水源とする説も散見されます。確かに玉藻池は千駄ヶ谷の枝谷を利用して作られた池であり、こちらにも湧水があったようですが、池自体は玉川上水余水を引いてつくられた人工の池です。

 渋谷川の本来の源流は、御苑の西側、「千駄ヶ谷」の谷頭近辺に位置する天龍寺境内の「弁天池」だったといわれています。天龍寺は17世紀半ばに牛込よりこの地に移転してきましたが、それ以前から池があったかどうかは不明です。確かに江戸時代の地図には、天龍寺境内の池から渋谷川が流れ出しているように描かれています。また、近年の遺跡発掘では「弁天池」かどうかはわかりませんが湧水を利用した池が発見され、明治初期に埋め立てられたと推定されています。

 写真は2004年まで新宿御苑の西端近くにあった、渋谷川のいわば最上流部ともいえる流れです。この頃までは季節によってはじわじわと湧き出した水がせせらぎをつくって流れていました。とても新宿駅から1kmも離れていない都会のど真ん中とは信じられない風景です。(※2015年現在では整備されてしまい、人工的に水が流されている)

内藤大和守下屋敷分水

 一方で江戸期には玉川上水から天龍寺の東側(現在の新宿高校西側境界線沿い)に沿って千駄ヶ谷の谷頭まで、内藤大和守下屋敷分水が引かれていました。この分水は明治中頃までには廃止されたようですが、この間源流部の流路は玉川上水の分水路のような状態になっていたことになります。御苑西端の道端に、分水路の遺構のようなものがわずかに残っています。(右上が道。画面中央には板をさしこんで堰止められるようなコンクリート製の溝がある)このように、谷筋の湧水に玉川上水からの分水を加えた流れが千駄ヶ谷を東進していました。


ひょうたん池跡のせせらぎ

 玉川上水から内藤屋敷への分水路のあった谷は分水の廃止後「ひょうたん池」になりました。池は戦前に防空壕の残土で埋め立てられましたが、冒頭の写真のように、近年までは、内藤大和守下屋敷分水の遺構と道を挟んだ反対側の地面から水が滲み出して、流れていました。
 1991年の東京都調査によれば、新宿御苑内には5箇所の湧水が確認されています。いずれも地下水位30m、関東ローム層の上に湧き出す水です。この源流部にあったせせらぎがこれらの湧水のひとつなのかどうかはわかりませんが、2005年に関係筋にきいたところでは、人工的に水を流しているわけではなく、埋められた分水路の遺構内に溜まった雨水が染み出しているのではないかとのことでした。確かに季節によってはせせらぎというより水溜り状態のときもありましたが、それは間違いなく渋谷川の源流でした。流れはひょうたん池跡の湿地を潤した後、土管で「上の池」に導かれていました。
しかし、数年前に一帯は整備されて水は染み出さなくなり、循環水が流れるようになってしまいました。


上の池

「上の池」はもともとは新宿植物御苑の時代に鴨池として造成された池です。また、この池と中池をつなぐ池は養魚池だったようです。1972年(明治5年)、官有地となった内藤家屋敷の敷地には農業試験場「内藤新宿試験場」が開設、明治12年に新宿植物御苑として皇室の御料地・農園になりました。1906年(明治39年)には敷地東側の西洋式庭園が完成して「新宿御苑」となり、戦後一般に開放されるかたちになりました。


庭園の小川

 上の池から連なる池の北側に、石組でつくられた小川があります。この水路は湧水を利用して作られていたようです。現在上流の方は水もなく湿っているだけですが、途中から徐々に水が現れています。ここも5箇所の湧水地点のひとつなのでしょうか。


 流路の途中に掘抜き井戸のような穴がありますが、何でしょう?単に雨水がたまっているだけのようにも見えますし、わずかに水が湧きだしているようにも見えます。中の水は澄んでいました。この場所のすぐ下流側が小さな池となっています。


擬木の橋

「千駄ヶ谷」沿いに上の池から連なる中の池、下の池は、西洋式庭園の造成時に川沿いの水田もしくは湿地だった場所を池にしたようです。現在中の池が蓮池となっていることからも、もともと湿地だったことが推定できます。下の池からいよいよ渋谷川が流れ出しています。この場所には、日本最古の擬木の橋(コンクリートで木を模した橋)がかかっています。この橋は1905年(明治38年)にフランスから購入され、3人の技師が来日して組み立てたとのことです。


渋谷川流出地点

 先の橋の下から、渋谷川が流れ出しています。川幅3mほどでしょうか。池から流れ出る水は少し黒ずんでいます(蓮のせいだと思います)が、橋の下流の左手から、かなりの量の綺麗な水が流れ込んでいます。写真でいうと、中央右側から池の水が流れ、中央より下の水が、左下から流入する水です。薄暗くてよく見えませんが、水中に土管があるようにも見えます。
 東京都の調査で明らかになっている5箇所の湧水のうち1箇所は、一日あたり646立方メートルもの湧水量が計測されていますが、それがこの場所なのかもしれません。(ちなみに他の場所は多い順に36、21、11、8.6立方米)

(※2015年追記:最近では、池の水位が低くなり直接池からは水は流れ出していません。一方で橋の直下付近の川底からかなりの量の水が湧き出し、流れを形作っています。詳細はこちらの記事をご参照ください→「みちくさ学会記事拾遺 玉川上水余水吐の暗渠と渋谷川源流 」(2010/11/17記))


 せっかく流れ出した川ですが、この先数十メートル流れるとすぐに暗渠の中に消えてしまいます。川は新宿御苑を出て道路下を進み、中央線の線路の北側で、かつて御苑の東側の境界に沿って流れていた玉川上水余水の暗渠と合流します。