2016/03/30

【5-2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流)

(※今回は2016年再撮影の写真が中心となっています)

 渋谷川が古川と名前を変える地域の北側、いわゆる麻布山の台地には、かつて数多くの湧水がありました。笄川編でとりあげた有栖川宮記念公園や、今後取り上げるがま池など、今もいくつかの湧水が残っています。今回はその中で、有栖川宮記念公園南側の南部坂を登り切った天真寺付近に発し、旧麻布本村町を流れていた細流をとりあげます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

天真寺裏手に残る最上流部

 この流路は全長わずか600メートルほどですが、中流部は急峻なV字谷となっています。明治期の郵便地図や地籍図には、天真寺の裏手、南麻布3-1から南東に延びる水路が描かれています。天真寺は1661年創建の臨済宗の寺院です。周囲は浅い窪地となっていて、その東寄りに、水路跡が現在でも空き地として残っています。地下には直径30cmほどの陶管が埋まっています。下水化された暗渠です。
(※2016年再撮影)

 天真寺の南側で水路は一旦道路沿いに変わります。写真は柵をされた水路跡。奥が上流です。手前に二つ並ぶ縁石付きの立派なマンホールは、この水路跡の暗渠のものです。
(※2016年再撮影)

 かつて水路は道路の左側を奥から手前に流れていました。写真奥に前の写真の柵が見えます。
(※2016年再撮影)

未舗装の水路跡

 かつて水路は本村保育園(※2016年現在南麻布3丁目保育室)の北側でクランチ状に曲がっていましたが、ここの場所にも水路敷の空間が残っています。この付近までは、川というよりは屋敷の排水や湧水を集めた水路だったのでしょう。
(※2016年再撮影)

 奥まで入ってみます。ここにも地下に細い下水管が埋まっています。コンクリートの擁壁の下には、護岸のような大谷石が残っています。
(※2005年撮影)

奴坂

 水路はこの先、遍照寺の境内と墓地を抜けていきます。通り抜けは出来ないので、下流側へと回りこんでみます。水路の流れる谷はここまでくるとかなりはっきりしてきて、台地上と谷底の高低差は6mほどになります。谷はかつて「竹ケ谷」「竹ケ谷ツ」と呼ばれ、鶯の名所だったとも言います。
 写真はその谷を横切り本村小学校の北側を抜ける坂で、下って上る一セットで「奴坂」と呼ばれています。由来には諸説あるようですが、地形的には「谷戸小坂」が変化したという説がしっくりきそうです。
(※2005年撮影)

更に続く水路跡

 坂を下りきったところで南側を見ると、家々の隙間に水路跡の続きが細い路地となって現れます。明治期の地図にも描かれている由緒正しき水路跡です。
(※2016年再撮影)

釣り堀「衆楽園」

 この路地は途中から先は通りぬけ出来ないので、一つ西隣、本村小学校脇の道を南下してみます。本村小学校は1902(明治35)年開校の歴史ある小学校です。
(※2005年撮影)

暫く進むとかつては電信柱に、写真のような小さな看板が付けられていました。
(※1997年撮影)

 道を下っていくと、突き当たりに釣堀が出現します。釣堀の名は「衆楽園」。谷に湧く湧水を利用した池が釣堀となっていて、ヘラブナが放たれています。昭和初期(一説には大正末期)から続いているそうで、戦時中は水田となったものの、現在までひっそりと営業が続けられています。湧水量は港区の調査では毎分9〜12リットル(※2011年調査)といいますが、井戸水の汲み上げもあるようです。
(※1997年撮影)

V字谷を横切る「釣堀坂」

 水路は釣堀の池の東側付近を通っていたようです。もういちど廻り込んで、今度は奴坂の1本南側の、谷を横切る坂道を下ります。かなり急な、滑り止めのついた坂となっており、谷底まで標高差にして8mほどを下った後、階段付の上り坂となっています。坂はふたつあわせて「釣堀坂」と呼ばれていたそうで、坂の南側、本村町住宅のところにかつて名前の由来となった釣堀があったそうです。この釣り堀も谷の湧水を利用していたものと思われます。
(※1997年撮影)

本村町貝塚

 上は1997年、下は2016年の、坂の様子です。向かいの坂のある台地の斜面一帯には縄文前期の貝塚「本村町貝塚」が発見されています。発掘されたハマグリなどの貝殻は、縄文期、この谷が入江となっていたことを示しています。
(※2016年撮影)

 谷底から東側の坂を見上げた様子です。坂沿いの石垣から傾斜がわかります。
(※2005年撮影)

谷底の道
 
 谷底には、北に向かって細い路地が通っています。水路はかつてこの路地に沿って流れていました。
(※2005年撮影)

わずかに残る湧水

 路地の突きあたり、側溝をよく見るとちょろちょろと僅かながら水が流れています。川が失くなった後も、わずかに残る湧水が流れを作っているのです。この湧水は1997年に訪問したときも流れていました。奥に見える青いタイルと白地のマンションが、さきほどの釣堀です。
(※2016年撮影)

 路地の入口から逆方向、南を向くと、薬園坂緑地があります。これより下流側には水路の痕跡は全く残っていませんが、かつての水路はこの緑地付近を抜けて現在イラン大使館領事邸となっている場所を横切り、薬園坂の袂に達していました。
(※2016年撮影)

薬園坂

 写真奥が薬園坂です。かつて流路は左側からこの付近で道沿いに出て来ていました。薬園坂の名は、江戸前期にこの辺りに幕府の御薬園があったためにつきました。御薬園はその後1684(貞享元)年には廃止され、小石川の白山御殿跡に移され、後には小石川植物園となります。
(※2016年撮影)

 薬園坂を下ってきた道は明治通りと交差し、古川(渋谷川)を四の橋で越えていきます。奥に見える高速道路の下が古川と四の橋です。本村町の流れはこの付近で渋谷川に合流していました。
合流部付近の標高は7mほど。上流は28mでしたから、短い距離で一気に21mも下ってきたことになります。
(※2016年撮影)

次回以降も引き続き、古川の支流を取り上げていきます。



【5-1】古川水系の概要

 南青山一帯の水を集めていた笄川を広尾の天現寺橋であわせた渋谷川は、それより下流、渋谷区から港区に入ると古川と名前を変えます。古川は、自然教育園からの流れに三田用水の分水をあわせた白金分水、国立保健医療科学院(跡)に発していた小川、白金台1丁目近辺に発していた玉名川といった白金台からの流れや、麻布台からの小流を合流し、古川橋で北向きに流路を変えます。更に一の橋で、麻布台の水を集め麻布十番を流れていた小川を合流して再び流路を東向きに変え、芝で四谷鮫河谷・麹町清水谷~溜池から流れていた桜川の水をあわせた後、天現寺橋より4.4km下流にあたる浜崎橋で東京湾に注いでいます。
 下流部は江戸期に開鑿されてもともとの川筋よりも北寄りに付け替えられたため、新堀川とも呼ばれていました。以前の川筋の名残は「入間川」として河口部が戦前まで残っていました。
 現在、渋谷川~古川の本流以外はすべて埋め立てられたり暗渠となっていますが、支流沿いにはところどころ湧水や池が残っています。まずはそれらの支流を探索していったうえで、古川本流を河口まで辿ることとします。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)