2016/01/22

【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2

(写真は特記のない限り2005年撮影のものです)

 今回は恵比寿以東の渋谷川、そしてそこにかつて流れ込んでいた三田用水道城口分水を辿っていきます。まずは地図を。点線は暗渠・水路跡・川跡、実線は開渠。青は自然河川、赤は用水路・上水路を示しています。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

恵比寿橋から(2005年)

 恵比寿駅付近より下流(渋谷橋以東)、天現寺橋まで古川と名前を変えるまでの区間の渋谷川は、長らく昭和初期の改修工事時のままとなっていましたが、1990年代後半より再改修が始まり2003年には竣工、姿を一変させました。川底を掘り下げてつくられた2段式の垂直なコンクリート護岸はあまりにも機能に特化し過ぎたフォルムで、人を寄せ付けない冷たい感じがします。(稲荷橋(渋谷駅南)〜恵比寿橋の区間は1986年に再改修)

恵比寿橋から(1997年)

 同じ場所から1997年に撮った風景です。当時は1929年〜31年にかけての改修工事による古びた三面張の護岸がほぼそのまま残っていて、河床の中央に造られた細い溝を水が流れていました。左岸に、前の写真にも写っている建物が2棟ほどありますが、そのほかの風景は大きく変わっています。川の上に張り出した大木も今はありません。
(1997年撮影)

三田用水道城口分水(1997年)

 新橋の下流側ではかつて右岸から三田用水道城口分水が合流していました。現在では跡形もありませんが、再改修が始まる前までは、合流部からわずかな区間が開渠で残っていました。写真は1997年の合流口の様子です。奥を左から右に向かって渋谷川が流れており、そこに手前から道城口分水が合流しています。大谷石の護岸の下部が格子状に飛び出ているのが特徴的です。
 道城口分水は道城寺口もしくは道城池口分水とも呼ばれ、1719年に、現在の都営バス渋谷自動車営業所付近にあった「田子免池」への分水((池)猿楽口分水と推定。前々回の記事参照→「【3-4】三田用水猿楽口分水」)と同時に「道城池」への分水として三田用水から引かれました。道城池は現在の恵比寿駅西側、恵比寿南1-4の辺りにあったと推定され、15世紀半ば頃まで池端にあった道城寺という寺院に由来しています。
(1997年撮影)

三田用水道城口分水の水路(1997年)

 合流口から上流方向を見たところです。数十mの区間ではありますが、水路が残っていました。トタンの小屋が蓋状に覆いかぶさっており、奥の通りより先は暗渠となっています。
(1997年撮影)

三田用水道城口分水の暗渠(1997年)

 その先、渋谷区新橋出張所の脇には水路跡が未舗装の路地として残っていました。つきあたりで暗渠跡の路地が直角に曲がり恵比寿方面に向かっていますが、かつてその辺りに2つの水車小屋がありました。道城口分水はもともとは恵比寿駅付近の渋谷橋のたもとで渋谷川に合流していた自然河川と思われます。三田用水から分水が引かれたのち、渋谷川沿いの水田に給水するために渋谷川に沿って水路が東に迂回するように延長されたようです。
 大正に入ると水田はなくなり流域は都市化され、昭和初期には水路は再び直接渋谷川に合流するようになりました。その際この迂回区間は埋め立てられましたが、再下流部だけは切り離され、周囲の排水路として残されたようです。
(1997年撮影)

道城口分水を遡る(2016年再撮影)

 こちらは上の写真と同じ場所の2016年の様子です。建物の幾つかは1997年当時のままですが、暗渠路地は舗装され、ずいぶんと雰囲気が変わりました。それでも車止めが、ここが暗渠であることを暗示しています。
(2016年再撮影)

失われた恵比寿駅以西の流路

 これより上流の水路跡は車道に呑み込まれ、消滅しています。かつての水路は恵比寿駅に突き当た駅の西側に続いていました。最近まで恵比寿駅東側の道路の下に、人が通れるくらいの暗渠が残っていたそうです。駅の西側、分水地点までの区間にもまったく手がかりはのこされていません。
 昭和初期の地籍図にはそのルートが記されています。現在の地図に重ねあわせてプロットしたのが下の地図となります。これを頼りに辿ってみます。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図に内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」(1935)記載の流路をプロット)

道城池跡

 まずは恵比寿駅西口、かつて道城池があった場所を見てみましょう(地図①)。道路が分水路の跡で、右側に道城池があったと伝えられています。道城池は徐々に埋まり江戸末期にはなくなっていたとされていますが、一説には明治中期まで名残の小池があったといいます。池がなくなった後も、水路の両岸は明治後期まで水田になっていました。
(2016年再撮影)

糠屋水車跡

 恵比寿南2ー1付近から、谷の地形が明瞭になってきます。ここでは西側に長谷戸と呼ばれる細長い谷が分岐していました。谷は現在は駒沢通りとなっています。長谷戸の字名は現在小学校の名前として残っています。
 そして分岐点付近には「糠屋水車」がありました。道城口分水の三田用水からの取水地点付近には
幕末に目黒砲薬製造所が建てられ、明治18年からは同じ場所に目黒火薬製造所が稼動開始しました。この際、玉川上水から三田用水への分水口(下北沢)に火薬製造所用の分水口を併設して三田用水を増水し、水車を廻して動力や工業用水としました。道城口分水は利用された水の排水路として使われるようになり、そのため「火薬庫分水」とも呼ばれるようになりました。
 「糠屋水車」は、この火薬工場が稼動しない夜にならないと十分な水量が流れないので、夜にしか稼動できず、「おいらん水車」と呼ばれていたそうです。
 写真は水車があった場所よりやや上流、地図上②の地点です。路面に古びた細長いコンクリートの構造物が埋まっています。地図から判断すると水路はちょうどこの場所を左から右に向かって流れていたはずです。もしかすると、欄干の跡かもしれません。
(2016年再撮影)

分水の最上流部

 最後は地図の③の地点です。この区間は、かつての水路と重なって短い道路が通っています。路上自体には何の痕跡もありませんが、周囲の地形をよく見るとわずかに低くなっていることがわかります。奥の突きあたりは防衛省艦艇装備研究所です。目黒火薬製造所が昭和3年に移転した後、跡地には海軍技術研究所が出来ました。戦後その施設は防衛庁技術研究所に引き継がれ今に至ります。構内には三田用水の水を利用した実験用の大きな池があり、水の利用は1975年に水道に切り替えるまで続きました。
 道城口分水は構内を通る三田用水のどこかから分水されていたはずですが、古地図をいろいろと調べても明確に記されているものはなく、構内の水路が何処を通っていたかは不明です。
(2016年再撮影)

※三田用水についてはサイト「ミズベリング」に記事を書いていますので、ご参照ください→「水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第10回 台地の上の、水のない水辺 三田用水跡をたどる」

新橋付近
 
 再び渋谷川に戻ります。1997年に道城口分水の合流地点から少し下った「新橋」から上流方向を望んだ写真です。周囲の建物は高層化が進んでいますが、川は戦前の護岸が残っていました。
(1997年撮影)

玉川水車と福沢水車

 一方こちらは同じ1997年、新橋から下流方向を望んだものです。再改修されたばかりの真新しい護岸が続いています。奥の左岸の緑地、臨川児童公園のところには玉川水車(広尾水車)がありました。この近辺の渋谷川は水車用の堰があったため淀みとなっていて、南側沿いには僅かな水田をはさんで土の崖となっており、流れの上には木々が張り出していたそうです。現在川は再改修で人工的なコンクリート護岸となっていますが、川沿いは以外に緑が濃く、当時の姿を何となく想像できそうです。
 なお、玉川水車より下流側、天現寺橋の手前には、福沢諭吉が所有していた水車があり、それより下流は十分な傾斜がなかったため水車が設置されることはありませんでした。
(1997年撮影)

水抜き穴からの湧水

 川沿いのあちこちでコンクリート護岸にあけられた水抜きの穴から湧水が勢いよく湧き出しています。写真の場所は1997年に訪問した際も同じように水が湧き出していました。

天現寺橋

 笄川の暗渠が天現寺橋の下で合流しています。ここより下流は渋谷区から港区に移り、渋谷川は古川と名前を変えます。

古川へ変わる渋谷川

 1997年に、天現寺橋から下流の「古川」を望んだ写真です。河床は改修されているものの、護岸は戦前のものがまだ残っています。(現在では大幅に改修されています。)
(1997年撮影)

 以上で渋谷川中流編は終わりとなります。以降は渋谷川下流部である古川の水系を辿っていくことになりますが、その前に、中流部最大の支流である笄川の水系を辿ってみることとします。


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