2016/02/19

【4-6】笄川下流部と高樹町支流・宮代町支流

(※写真は特記ない限り2005年撮影です))

 前回に引き続き、笄川(こうがいがわ)の下流部を下っていきます。まずは地図を。青の点線が、かつて川が流れていたルートとなります。
 (地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

笄橋(こうがいばし)

 笄川は六本木通りを越え南下していきます。写真は通りから150mほど進んだ地点です。正面に見える牛坂のたもと、十字路を右から左に笄川本流が流れており、ここに笄川の名前の由来となった笄橋がかかっていました。手前の道沿いには龍土町支流が流れ、笄橋の袂で合流していました。
 笄橋の名前の由来には様々な伝承があります。主なものとしては、939年の「天慶の乱」の際、源経基が川にかかる橋を渡ったときに味方の証拠として刀の笄(鉤匙)を与えたため、その橋が笄橋と呼ばれるようになり、橋の下を流れる川を笄川と呼ぶようになったという説や、徳川家康が江戸幕府を開いた際に、このあたりに甲賀、伊賀組に屋敷を与え住まわせた。そのため、橋を甲賀伊賀橋と呼ぶようになり、後に笄橋に変わった、等々。白金長者(後日、白金村分水の項でとりあげます)の息子銀王丸と、渋谷の金の長者(金王丸のことか→「【3-2】渋谷川中流部(1)渋谷川中流部と黒鍬谷の支流」参照)の娘との恋路に結びつけた伝説も残っています。
 これらは後からのコジツケで、実際には一帯の地名が「国府が谷」「鴻が谷」と呼ばれていたのが変化したとも、いわれています。いずれにせよこの笄が川の名前や町名になりました。しかし、現在ではその名を留めるのは笄小学校くらいです。暗渠の通りは最近ではビストロ通りと呼ばれているそうですが、せめて笄川通りとでも呼んでほしいものです。

高樹町支流

 笄橋からしばらく下った堀田坂の下のところでは、旧高樹町に始まる谷筋を流れる支流が合流していました。この支流はもともとは高樹町19番地(現在の南青山7-9から12)にあった丹南藩主高木氏の屋敷の池を水源としていたようです。この池は600坪あまりの広さだったそうですが、徐々に小さくなり、明治中頃には埋め立てられてしまったようです。下は明治前記の地図です。この時点で高樹邸の池はだいぶ小さくなっていますが、急峻で細い谷筋を川が流れていた様子がはっきりとわかります。
(地図出典:「五千分一東京図測量原図」参謀本部陸軍部測量局 1883年)

 池が失くなった後も川は残り、戦後しばらくたった地形図にも流路がはっきりと載っています。しかし現在では、谷は埋め立てられて住宅地となり、川の痕跡は皆無です。わずかに高陵中学校の東側、クランチ状に曲がる道路の一区間が川跡の敷地を利用したものとなっています。写真は道が高陵中学校に突き当たっている場所で、門の向こうはプールとなっています。川を暗渠にした下水道は校庭を通ってこの道に抜けています。(※2016年現在、中学校の改修により下水道は校庭を迂回するよう付け替えられている)
道の反対(下流)方向を向くと、こちらは民家の門に突き当たっています。暗渠の下水道はここも通り抜けています。かなり幅が狭く急な谷筋ですが、はっきり川跡が特定できるのはこの区間だけでした。現在高樹町の名前は首都高速の出入口に残るのみです。

笄小学校付近からの流れ

 堀田坂下、高樹町支流の笄川への合流地点の反対側には、別の暗渠が合流しています。こちらは現在の笄小学校付近から笄公園を経てきたの流れの痕跡のようです。笄小学校の裏手には80年代終わり頃までは湧水が残っていたといいます。ちなみに堀田坂は別名「禿坂(かむろざか)」ともいい、笄川に住んでいたカッパがその名の由来だという伝承もあるそうです。


順心女子学園脇の暗渠

 堀田坂より下流は渋谷区と港区の区界となって、外苑西通りと並行し順心女子学園(※現在広尾学園)の脇を下っていきます。地下には幅3mあまりの暗渠が通っています。道路わきには土が露出し、木が道の上にせり出しています。

川沿いの土手

 暗渠の右岸(西側)は知的障害児施設である宮代学園の敷地となっていて、木々に囲まれ自然を残した風景となっています。ここに川が流れていたらさぞかしいい景色だったことでしょう。


宮代町支流

 笄川の暗渠が外苑西通りに合流する手前の西側、広尾ガーデンヒルズと聖心女子大学の境界線は狭く深い谷となっていて、かつて小川が流れていました。1970年頃まで開渠だったようで、日赤看護大学から流れ出し笄川に合流する流れが住宅地図に描かれています。また、1955年の地形図には谷を堰き止めて造ったと思われる池が描かれています。一帯は旧町名を宮代町といい、更に、1928年以前は笄開谷(こうがいだに)との字名がついていました。ここではこの支流を「宮代町支流」と仮に呼びます。反対側はいもり川の谷となっています。下は1966年の住宅地図です。中央、深い谷を流れが貫いています。
(地図出典:「全住宅案内地図帳渋谷区版 昭和41年度板」住宅教会地図部編集室編)

久邇宮邸と御泉水

 宮代町支流の谷を挟んだ丘陵地は江戸期までは堀田相模守の下屋敷でした。明治に入り、一帯は東京府の開拓使用地となります。その後開拓民は北海道に転じ、一帯は御料地となり、久邇宮邸が置かれます。詳細は定かでありませんが、その頃、宮代町支流の源流地は「御泉水」と呼ばれていたようです。戦後敷地は民有化され、現在に至るまで、聖心女子大学の敷地となっています。
 構内に立ち入ることはできませんでしたが、谷の両側の斜面はコンクリート擁壁で固められ、谷底には道が通っているようです。流路は写真の左手の坂の方から下ってきて、右奥からの笄川に合流していました。

広尾橋

 地下鉄日比谷線広尾駅付近、広尾商店街と外苑西通りの交差点には今も「広尾橋」の名前が残っています。もちろん、笄川に架かっていた橋の名前です。

天現寺付近の外苑西通り

 地下鉄広尾駅以南の笄川は外苑西通りの建設にあわせて1930年代後半に外苑西通りの直下に付け替えられ「下水道青山幹線」として暗渠化されました。現在、地上には川の痕跡はありません。

区界に残る笄川のルート

 ただ、渋谷区と港区の境界線が道路とずれて蛇行しており、かつての笄川の流路を偲ばせる唯一のてがかりとなっています。
(地図出典:google map)

天現寺橋

 地下鉄広尾駅付近から天現寺交差点付近にかけては、江戸時代は「廣尾の原」「土筆の原」と呼ばれる広大な原野で、校外の景勝地でした。現在の車が行き交う風景からはとても想像ができません。笄川は「【3-6】渋谷川中流部(2)三田用水道城口分水と渋谷川中流部その2」でも記したとおり、天現寺橋の下流側で渋谷川に合流して終わります。現在では雨水幹線の暗渠が大きく口を開けています。

 以上で笄川本流をたどり終えましたが、笄川水系についてはあと1回、有栖川宮公園の池について取り上げることとします。

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