ひきつづき、原宿村分水の下流部をたどっていきます。まずは神宮北池に注ぐ小川から。
北池に注ぐ小川
明治神宮の敷地内、宝物殿のそばに「北池」に注ぐ200mほどの小川が流れています。一帯は江戸期は彦根藩井伊家の下屋敷で、明治時代には南豊嶋御料地となり、草原や林が点在していたようです。そして大正に入って明治神宮として整備されました。宝物殿は1921年に完成しましたが、その正面の庭園とこの小川も同じ頃に整備されたものだといいます。ただ、明治初期の迅速測図には、谷戸を流れる川が描画されており、地形から判断しても、もともと水が流れていたのではと思われます。
小川の水源は現在でも自然のものです。写真の奥、林の中にくぼみがあって、そこから水が染みだしています。比較的浅い谷のせいか水量は季節によって変化するそうで、枯れているときもあります。
落ち葉積もるせせらぎ
写真は2004年11月、度重なる台風の雨により、東京各地で湧水が復活したときのもので、小川にはかなりの水量が流れていました。
こちらの写真も2004年11月のものです。一帯は緩やかな丘を芝生が覆う北欧式庭園となっています。川の水が流れている時期にはで子供達が水辺で遊ぶ姿や、鳥が水浴びをする様子も見られます。
神宮北池
北池の場所はもともとは湿地となっていたようで、神宮の造成時に堰き止めて池がつくられました。最近では十数羽のオシドリを観察できることで知られているようです。池が出来て以降、池から溢れた水は暗渠として神宮の北端で外に流れ出し原宿村分水に合流していました。現在も水が流れ出しているのかどうかは、池の北側が立ち入り禁止となっているためわかりません。
山手線を越える
再び原宿村分水本流に戻ります。山手線土手の東側に、水路が土手の下を潜っていた痕跡が残っています。山手線は明治18年に開通していますが、その当初よりこの位置で川を越えていました。
暗渠の道路
道路の下を幅2mほどの暗渠が流れています。この先明治通りの手前では流路跡が「千駄ヶ谷3丁目遊び場」となっています。明治通りを越えると再び2本の並行した流れに戻ります。
東側水路の暗渠
明治通りを越えた先は、南新宿駅付近とは逆に西側の流れが戦前に、東側の流れが戦後に暗渠化されました。暗渠化に先立ち、大正初期には2本の水路に挟まれた水田が宅地として整備され、水路も直線にちかいかたちに改修されました。
西側の水路が暗渠化される直前の1930年代には、付近では単に渋谷川支流と呼ばれていたとか。澄んだ水が流れていたそうなので、その頃はまだ玉川上水からの水が流れていたのでしょう。大雨の際には増水し、子供が流されて亡くなったこともあったそうです。写真は東側水路の暗渠です。
東側水路と西側水路の合流
東側水路はこの先で西側水路と合流していました。合流地点の下流部は千原児童遊園になっています。(写真奥の緑地)
渋谷川との合流地点
原宿村分水は渋谷川に架かっていた原宿橋(跡)のすぐ下流側で渋谷川に合流して終わります。合流地点での暗渠の幅は2.5m、渋谷川は3.6mとなっています。原宿橋跡のすぐ下流右岸側に、合流地点の一角が空き地となって残っています。写真の花壇あるスペースがそれで、この先に、左から右に向けて渋谷川暗渠が通っています。
次回は再び渋谷川へと戻り、流路を下っていきます。
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