(※写真は特に記載のない限り、2005年撮影のものです)
もうひとつの支流暗渠
さて、玉川分水原宿村分水の合流地点、原宿橋跡から、再び渋谷川を開渠になる地点まで下って行くことにします。原宿橋の左岸側(東側)からは、かつてはもうひとつ別の支流が合流しており、車止めのある細い路地として残っています。
※2015年追記:こちらについては2010年に記事にしていますので、ご参照下さい。下の写真はその際撮影したものです。
穏田の水車
この付近の渋谷川は、一帯の地名から穏田(おんでん)川と呼ばれていました。写真の場所近辺には「村越水車」があり、明治中頃は直径6.5mの大きな水車に杵を57本も連結して米搗きを行っていました。水車は川が蛇行する地点(写真で暗渠が右に曲がる突き当たりの場所)に、蛇行をショートカットして直線で進む水路をつくり、そこに設けられていました。これは水の勢いを強めて水車の能力をたかめるための工夫でした。渋谷川沿いにはこのように蛇行地点を利用した水車が多かったそうです。
葛飾北斎の冨嶽三十六景の1枚に「隠田の水車」はこの水車か、もしくはこれより下流、穏田神社の傍にあった「鶴田水車」(忠左衛門の水車)のいずれかを描いたものといわれています。
キャットストリートと裏原宿
渋谷川上流部は1963年に暗渠化、67年に遊歩道・遊び場として整備されました。そしてその後、誰ともなく「キャットストリート」と呼ばれるようになりました。もともとは表参道よりも下流(南)側を呼んでいたようですが、最近では原宿橋の辺りまでさかのぼって呼ばれているようです。由来には諸説ありますが、1980年前後に、暗渠沿いの現渋谷教育学園の生徒が、猫が多いため「猫通り」と呼び始めたことから広まったというのが有力な説とされています。確かに暗渠を歩いているとたいてい猫に出会います。
下の写真は1996年末の渋谷川暗渠上の様子です。この頃まではまだ遊び場として砂場やブランコが設定されている区間が各所にありました。
1996年以降、暗渠跡の遊歩道は再整備されて、明るい車道となり、暗渠沿いには個性的なアパレルショップや雑貨屋が増えました。特に表参道以北明治通り以東の一帯は、90年代後半以降「裏原宿」とも呼ばれるようにもなりました。
参道橋と「鐙の池」
表参道は明治神宮への参道として大正9年に開通しましたが、それ以前は通り付近の地形は今とはずいぶん異なっていました。神宮前5-7にあるユニオンチャーチの辺りを源頭とし神宮前小学校にかけて深く細長い谷があり、そこには「鐙の池」と呼ばれる湧水池がありました。池を囲む一帯は浅野山と呼ばれる広島藩浅野家屋敷の森となっていて、鐙の池の西側にも同じように細長い池があったようです。
谷は表参道が造成された際に池ごと埋め立てられましたが、豊富な湧水量を誇っていたため工事は困難を極めたそうです。その後つくられた神宮前小学校のプールは湧水を利用していましたが、おそらくその湧水は埋められた鐙が池の谷の湧水が地下を通って湧出していたと推定されています。地下鉄千代田線の建設時にも大量の湧水があったことが記録に残っています。
表参道が渋谷川を渡る地点には「参道橋」が架けられました。その欄干は現在でも残されています。参道橋の手前では、明治神宮南池からの小川が合流していました。こちらについては次回に辿ることとします。
参道橋より下流を望む
参道橋下流部も最近遊歩道が再整備され、妙に小綺麗になっています。「キャットストリート」とはいうものの猫が出没できる雰囲気ではありません。
蛇行跡
一方で、小奇麗な暗渠の左岸側には、蛇行跡の暗渠が残っています。こちらは昭和初期に渋谷川が改修された際に、流路をまっすぐにちかい形に整備したときの名残です。こちらにはうらびれた暗渠っぽさが漂っています。
護岸
遊歩道沿いに一段低くなった道が続いています。おそらくもともとは川沿いの道で、ガードレールの下のコンクリート壁は護岸だったのではないでしょうか。
(※2015年追記:かつての護岸そのものではなく、その上に追加したもののようです)
鶴田の水車
穏田神社を過ぎると暗渠の川幅が広くなり、道の真ん中に児童遊園が現れます。かつて暗渠上には各所に遊具が設置されていましたが、現在残るのはここだけです。近所の子供たちが遊んでいました。100年前は遊具ではなくここに流れていた川に入って遊んでいたのでしょう。
この近辺にはかつて「鶴田の水車」がありました。この水車は18世紀後半に設置された古いもので、渋谷川に高さ3mもの堰を造って左岸側に水路を分け、水車を廻していました。明治後期には水車の動力を使って真鍮の延板を作っていたそうです。この場所が穏田村であることから、先の村越水車ではなくこちらが北斎の描いた「隠田の水車」だとする説もあります。
消火用給水孔
児童遊園の手前、かつての八千代橋の床版の上には、東京府の紋章が入った「消火用給水孔」が2箇所残っています。戦前、川がまだ開渠だったころの設備と思われます。川沿いから水を取るのが困難で、欄干越しだとホースが折れてしまうので橋上に設置したのでしょうか。
※2015年追記:この「消火用給水孔」の謎について、「マンホール・下水・暗渠 ~rzekaの都市観察」というサイトを開かれているrzekaさんが、丹念な調査に基づく検証結果をまとめられております。以下にリンクさせて頂きます。
→「【マンホールナイト7】消火用吸水孔の新事実」
宮下橋
渋谷川が明治通りを越えるところにはかつて宮下橋が架かっていました。現在落書きだらけの欄干がひっそりと残されています。
宮下公園脇
明治通りを越えた先は幅7.5m、高さ3.6mの暗渠となって宮下公園の脇を通っています。暗渠沿いにはホームレスの人々のブルーシートハウスが林立しています。この先では宇田川(の暗渠)と合流しています。
姿を現す渋谷川
東急百貨店東横店の地下を通って渋谷駅の南東側で暗渠の区間は終り、渋谷川は地上に姿を現します。水はほとんど流れていません。現在の渋谷駅東口のバスターミナルのところには18世紀末より「宮益水車」が設置されており、明治初期にはこの水車の利益金で現在再開発中の東急文化会館の敷地にあった「渋谷小学校」の運営をしていたそうです。(なお、渋谷駅は今よりも南寄り、埼京線ホームのある辺りにあった)
暗渠が地上に出るところには「稲荷橋」が架かっています。現在国道246号線が通っている敷地にはかつて、橋の名前の由来となった「川端稲荷(田中稲荷)」があって、銀杏などの木々が生い茂っていました。大正期この近辺に住んでいた大岡昇平の「幼年」には
「当時は境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落としていた。「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、。荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた」
と書かれています。また、ちょうど写真に写っている辺りの川上には、大正期には川を跨いだ「川上家屋」が何軒か建っていたそうです。
※2015年追記:現在渋谷駅周辺の再開発に伴い、渋谷川の暗渠にも大きな変化が起こっています。詳細はこちらの記事をご参照ください
→「渋谷川暗渠、2度めの移設」(2014/2/6公開記事)
次回は参道橋付近で合流していた、明治神宮南池を水源とする川を辿ってみます。
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