2016/02/13

【4-5】笄川中流部と蛇が池支流・龍土町支流

(※写真は特記ない限り2005年撮影です)

 今回は青山墓地の東側を流れていた、蛇が池からの支流と龍土町からの支流、そして笄川の中流部についてとりあげます。まずは地図を。青の点線が、かつて川が流れていたルートとなります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

蛇が池支流:蛇が池跡

 青山の地名は現在の青山墓地の場所に広大な下屋敷を抱えていた青山家から来ています。徳川家康の家臣青山忠成は、馬で一気に走った所を自分の屋敷地にして良いと言われ、馬が倒れるまで走り回ってこの一帯を屋敷地としたとの伝承が残されていますが、これは渋谷川の源流である新宿御苑に下屋敷を構えた内藤家の伝承と全くおなじです。内藤家は甲州街道沿い、青山家は大山街道沿いと交通の要所にあたり、江戸防衛時に陣地となるよう広大な屋敷を与えられたといわれています。
 この敷地の北東側にあった「蛇が池」(「蛇池」「蛇之池」とも)から、笄川の支流が流れ出していました。水源が明確なためか、文献によってはこちらの流れを笄川の本流としているものもあります。蛇が池は木々が水の上に張り出す、鬱蒼とした池だったそうですが、明治以降徐々に小さくなり、昭和初期には埋め立てられてしまいました。池のあった付近は、現在では運送業者の駐車場となっています。

蛇が池支流:陸軍射的場

 蛇が池周辺の明治時代の地図を見てみると、三日月状の弧を描く「蛇之池」が確認できます。そして、それ以上に目立つのは池の東側にある「陸軍射的場」です。射的場は蛇が池からの谷筋をふさぐように、東北東から南南西に細長く矩形に延びた形をしています。等高線や地図記号から判断すると、蛇が池支流のもともとの流れは蛇が池の東端から流れだしてまっすぐ南下していたが、射的場で遮られたため、西側の谷筋の斜面を堀割で迂回するよう付け替えられたと推測できます。
(地図出典:「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国赤坂区青山南町近傍」参謀本部陸軍部測量局 1883年)

蛇が池支流:鉄砲山

 地図上、射的場の南南西側を見ると、コの字型に投稿線が密集している一角があります。これは弾止めの土手で、地元では鉄砲山と呼ばれていました。演習が行われない日には近所の子供たちの遊び場となっていたそうで、斎藤茂吉は
「赤き旗 けふはのぼらずどんたくの 鉄砲山に子供らが見ゆ」
と詠んでいます。
 射的場の敷地は戦後には更地となり現在ではふつうの住宅地となっていますが、道路の区画をみると、ちょうど射的場の形にそって周囲の道路に対してこの一角だけ斜めになっており、名残が見られます。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図に「東京市赤坂区地図」(東京郵便局 1907)記載の射的場・蛇が池等の位置をプロット)

蛇が池支流:外苑東通り沿い

 川は鉄砲山を迂回して現在の青山葬儀所の西縁を通った後、現在の青山通り西沿いの歩道の位置を青山墓地に沿って流れていました。外苑東通りはもともとは都電の専用軌道となっていました。歩道には道ばたに雑草が茂り、墓地の土手が迫っていて、現在でも川が流れていそうな雰囲気になっています。

蛇が池支流:青山墓地脇

 本流と異なり、蛇が池支流の谷には水田はほとんどなく、笄川本流と合流する直前、龍土町支流と平行する区間のみ、わずかに水田があったようです。流路は青山墓地の最南端の縁を回り込んで西に向かい、笄川本流と合流していました。(下の写真では左側が青山墓地となり、川は奥から手前に向けて流れていました。)

龍土町支流:水源近辺

 一方、蛇が池支流の更に東側には、六本木7-6(旧町名龍土町)の法庵寺近辺を水源とする支流が流れていました。この支流は新龍土町と霞町の境(現星条旗通り)の低地を西に流れ、外苑西通りのところで南に向きを変え、笄川本流と暫く並行して流れたのち、笄川本流に合流していました。現在は暗渠化され、完全に道路敷となっています。

龍土町支流:星条旗通り

 写真は星条旗通り沿いの暗渠の途中から上流方向を眺めた様子です。歩道の直下に暗渠が流れており、歩道の幅や曲がり具合に川の名残が見られます。通りの南側の斜面は明治初期には茶畑が点在するのどかな風景だったようです。通り沿いに住んでいる友人のお父上(1939年生)からは下記のような証言を頂きました。

・戦後天現寺より移り住んだ際にはすでにどぶ川のようになっていて、名前を付けて呼ぶようなものではなかった。
・現在の星条旗新聞社のあるところに近衛第三連隊があったが、進駐軍が駐留した。その時、鉄条網が張り巡らされ、その前に小さな土手、幅1メートルほどの歩道、幅2メートルほどのどぶ川という順に位置していた。もちろん、あたりは住宅だけで、今のように飲食店は全くなく、川に沿って通りの家々の裏口があっただけだった。
・上流は竜土町(六本木6・7丁目)、下流は笄町(西麻布2丁目)に繋がっていたと思う。
・昭和30年から35年頃にかけて、星条旗通り沿いに1メートルほどの土管を通し、暗渠にした。道路幅は広がったが、その頃はまだ車は通れなかったように記憶している。
・東京オリンピック(1964年)頃にはほぼ現在のような状態になった。

龍土町支流:立ち入り禁止

 川の北側の丘は、江戸期は伊達遠江守の抱屋敷でしたが、明治期に第三歩兵連隊の敷地となり、戦後は米軍の軍用地となりました。六本木の町はこの一帯に駐留した米軍兵相手の繁華街として発展しました。現在米軍の機関紙である星条旗新聞社の日本支社の敷地となっており、軍用地として扱われています。

龍土町支流:木陰

 星条旗通りと外苑東通りの合流する一角に、流路跡の道が残っています。この先外苑西通りの東縁にあたるところを笄川本流に並行して南下し、西麻布3-17で直角に西に曲がり、西麻布4-2の笄橋のたもとで本流に合流していました。本流との間の土地は明治中期までは水田となっていましたが、明治後期には急速に住宅密集地となりました。

笄川本流:立山墓地付近

 ここで再び笄川の本流(【4-1】記事参照)に戻ります。少し遡って、長者丸支流(【4-3記事参照】)合流地点付近から下っていきます。写真は立山墓地付近。左側の道が笄川の暗渠となります。地下には下水道青山幹線となった1.4m四方の暗渠が流れています。写真は2015年撮影のものです。2005年当時は道の分岐点には汲み上げ上げ井戸があり、笄川暗渠沿いには古い木造家屋が密集していましたが、井戸は外されて、家々も更地になっています。
(2015年再撮影)

笄川本流:東側分流の合流地点

 外苑西通りのところを流れていた本流の東側の分流は、暗渠化直前は上の写真の付近で直角に折れ、西側の流れに合流していました。その流路の付近には雑草の生い茂る細長い空き地が残されています。
(2015年再撮影)

笄川本流:コレヨリ私有地

 この付近は時代によって水路の変遷がずいぶんとあったようで水路がいりくんでいますが、明治中頃の市街地化後は、途中で現在青山幹線の通る道とは一本東側の路地の場所にシフトして流れていました。写真の路地がその流路にあたります。途中で根津邸支流からの流れ(の跡)(【4-4】記事参照)をあわせてすすんでいくと、路上に「コレヨリ私有地」の字が見られます。かつてこの地点で流路は右に折れ、再び青山幹線の道に戻っていたようです。シフト途中のルートには現在家が建っていて痕跡はありませんが、路上のこの文字がここまでが川だったことをはっきりと示しています。
(2015年再撮影)

笄川本流:霞町交差点と風街

 下の写真の手前で青山墓地東側からの蛇が池支流をあわせた笄川は、更に南下していきます。六本木通りにぶつかる近辺は昔からある道と暗渠の道が並行しています。写真の左側が暗渠の道となります。
 奥に見える高速道路の下は、六本木通りと外苑西通りの交差する西麻布(霞町)交差点付近です。笄川の谷が大きく深いため、高速道路はかなり高い場所を通っています。笄川が暗渠化されたのは昭和初期ですが、東京オリンピック前後にはこれらの高速道路や六本木通り、外苑西通りが開通し、笄川周辺の風景は再び大きく変わりました。

笄川本流:風街と笄川

 日本のロックのパイオニア”はっぴいえんど”の1971年のアルバム「風街ろまん」のタイトルになっている「風街」はこの辺り、旧「霞町」で生まれ育った松本隆が、オリンピックのときに失われた風景に対して名付けた名称です。松本の著した小説「微熱少年」では、風街は渋谷と青山、麻布を結んだ三角形とされています。と、するならば、その一辺はまさに笄川の暗渠と重なってきます。
 「風街ろまん」の内ジャケットには、渋谷方面から六本木通りを笄川の谷に下って霞町の交差点に向かう、新橋行きの都電6系統の路面電車(1967年廃止)が描かれています。

次回は六本木通り以南から渋谷川の合流地点まで辿っていきます。

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