2016/06/06

【5−7】玉名川(1)三田用水分水地点から覚林寺まで

玉名川と三田用水

 白金台に発する古川の支流を三田用水白金分水、白金三光町支流と追ってきましたが、最後に、「玉名川」を辿ります。玉名川は、港区白金台2丁目1~3近辺にあった「玉名の池」(玉縄の池とも)から流れ出し古川に注いでいた川です。玉名の池は山内遠江守下屋敷(のち南部遠江守下屋敷)の屋敷内にあり、もともとは湧水池であったようですが、のちにはそばの尾根上を通過している三田用水を字久留島(白金台3ー7近辺)で分水し、引き入れていました。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

今里橋

 分水地点のやや上流側には、三田用水に架かっていた「今里橋」の欄干が残されています。橋は江戸時代より架かっており、現存する欄干は1930年に竣工した鉄筋コンクリート造りのものです。特に保存されているわけでもなくかなり傷んでおり、そのうちなくなってしまうのかもしれません。

久留島口の分水地点

 台地上を流れていた三田用水は白金台3-7付近から先、尾根の鞍部を越えるために築堤の上を流れていました。現在築堤は壊されていますが、露出した三田用水の断面が史跡として保存されています。
 そしてちょうどこの近辺で、玉名の池への分水が引かれていました(写真右方向)。同じ場所からは反対側にも分水が引かれ、目黒川に流れ込んでいました。分水地点は「久留島口」と呼ばれており、玉名川側には90cm四方の導水口が設けられていました。

 分水地点(写真左奥)から、玉名の池方面に下る道です。ここを流れていたわけではないようですが、下り坂となっているのがわかります。
(2016年再撮影)

玉名池跡の窪地

 玉名の池があった一帯は現在住宅地となっており、道路も整理されていて池や分水路の痕跡を辿ることはできません。しかし、周囲からは明らかに凹んだ窪地となっており、地形にその名残を感じることができます。
(2016年再撮影)

玉名池の位置

 玉名の池は明治時代には岡崎氏邸宅の鴨池となりました。江戸後期の記録では、池は埋まってしまい窪地となっていたような記述もありますが、湧水池が一度干上がったのち、三田用水を引いて復活させたのでしょうか。芝区誌には、
「欝然たる大樹の間にある鏡のやうな池には数知れぬ鴨の群が集まってきたのである」
と記されています。明治期の地籍図や郵便地図をもとに、池の場所をプロットしてみたのが下の地図です。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図にプロット)

半田邸の池

 上の地図でわかるように、玉名の池の東側、白金台2-3付近にも大きな池がありました。池は半田氏の邸宅の敷地に設けられていました。池は、谷の北西側をせき止めてつくったような形をしています。
 こちらは戦後直後まで残っていましたが、埋め立てて造成され、現在では跡形もなくなってしまいました。ただ、歩いてみるとやはりこちらも窪地となっていることがはっきりとわかります。下の写真はかつての池の北辺にあたる付近です。空地となっている一角の土手が、かつての池を囲む谷の斜面を彷彿させます。
(2016年再撮影)

 玉名の池を流れてた玉名川は北上していきます。白金小学校の前を通る、桜田通りと目黒通りを結ぶ道が、桑原坂を下って玉名川の谷を横切っています。

桜の実の熟する頃

 川は明治学院大学敷地の西側の崖縁に沿って流れていました。一部の区間は道路として辿ることが出来ます。島崎藤村「桜の実の熟する頃」には、明治20年~24年頃の玉名川の様子が描写されています。

「彼はよくその辺を歩き回り、林の間に囀る小鳥を聞き、奥底の知れない方へ落ちていく谷川の幽かなささやきに耳を澄ましたりして・・・」「・・・誰も遠慮もないこの谷間で彼は堪らなく厭迫されるような切ない心をまぎらわそうとした」


八芳園の池

 川跡の道は「八芳園」につきあたります。「八芳園」の庭園は谷となっていて、玉名川を堰き止めてつくった池が残っています。一帯は大久保彦左衛門が晩年を過ごした屋敷と伝えられており、その後、松平家や島津家など様々な大名家の屋敷地となりました。明治時代には渋沢栄一の従兄弟にあたる渋沢喜作の邸宅と梅園になり、明治後期の地図には池が描かれています。川が池に流れ込む場所には水車もあったとのことです。
 大正期には日立製作所の母体となった日立銅山の創始者、久原房之助の別荘となり、敷地の拡張と庭園の整備が行われました。この際「四方八方どこを見ても美しい」ことに由来して「八芳園」と名付けられました。第二次大戦後、土地は民間企業に譲渡され、現在の八芳園となり、久原氏の旧邸宅なども利用し、結婚式場や料亭、レストランなどが設けられています。現在の池はポンプで揚水した地下水を利用しているそうです。

池の脇の水路

 池の脇には短い小川がつくられていますが、その一角には石造りの水門の遺構らしきものが残っています(暗くて写真には写っていません)。明治期の地図をみると、川は渋沢邸の池から流れ出し、都ホテル東京の場所にあった藤山氏邸宅の池へとつながっていました。おそらくここから流れ出していたものと思われます。

都ホテル東京の日本庭園

 都ホテル東京(現シェラトン都ホテル東京)は1979年に開業したホテルです。敷地内には藤山邸時代より引き継がれたおよそ6,000平方メートルの日本庭園が残っています。玉名川の谷の斜面には銀杏や楓などの木々が茂っています。そして、谷底の池やせせらぎは、かつては玉名川の流れを利用していたようです。
(2016年再撮影)

明治学院大学北側の流路跡

 玉名川は明治学院大学の西側~北側を台地の縁に沿って回り込み、目黒通りと桜田通りの分岐点に位置する覚林寺の前へと流れていました。水路跡を直接辿ることはできませんが、今でもかつての流路に、下水道となった暗渠が通っています。下の写真の奥から手前にかけてが流路にあたります。ここには幅1.4m、深さ1.2mの矩形の暗渠が埋まっています。路上の古いタイプのマンホール蓋が、暗渠の位置を示しています。
(2016年再撮影)

細長い空間

 覚林寺の敷地と桜田通りに挟まれて、やや窪んだ細長い奇妙な空間が残っています。バラック建ての飲み屋がその上に建っています。玉名川の暗渠と関係はあるのでしょうか。
(2016年再撮影)

 バラックより手前の植え込みの中には、立派な縁石に囲まれ、表面がだいぶ磨り減った古いマンホールも残っています。
(2016年再撮影)

清正公覚林寺

 覚林寺は「清正公」の名で知られる寺で、1631年、加藤清正を祀って開かれた日蓮宗の寺院です。初代の住職は文禄慶長の役の際、加藤清正により人質として連れてこられた朝鮮の皇子だとの言い伝えがあります。現在でも毎年5月4~5日に清正公大祭が行われており、武運長久であった清正公にあやかり「勝負」と「菖蒲」を掛けた菖蒲の葉入りの勝守や、開運出世祝鯉などが売られます。
 寺の敷地は周囲より低く浸水しやすかったため、2004年に本堂をまるごとずらして土地のかさ上げを行っています。

玉名橋

 覚林寺の前の玉名川には、かつて幅5m強、長さ2m弱の「玉名橋」が架かっており、蛍の名所として知られたそうです。現在の桜田通りのところにあった「名光坂(なこうざか)」はこのことに由来します。現在橋を偲ぶ手がかりはありませんが、寺と桜田通りの間に変なV字の窪地が残っています。玉名川はかつてこの付近で、いったん桜田通りの東側へと流路を移していました。
(2016年再撮影)

次回はこの付近で合流していた「樹木谷」の流れと、これより下流部の玉名川を追っていきます。


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