2016/06/17

【5−8】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部

(写真は特記ないかぎり2005年撮影のものです)

樹木谷

 前回に引き続き、古川の支流、玉名川を追っていきます。前回は三田用水の分水地点から覚林寺まで辿りましたが、今回はまず覚林寺の前で合流していた、「樹木谷」の流れを見てみましょう。樹木谷は現在の桜田通りに沿った谷で、地獄谷とも呼ばれていました。一説には斬罪場があったことに由来するといいます。
 明治学院大学の敷地は、ちょうどこの2つの谷に挟まれ、岬のようになっています。そして岬の先端に当たる部分はかつて海軍墓地でした。同じような立地の墓地に、笄川の流れに挟まれた青山墓地があります。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

わずかに残る流路跡

 地獄谷にはかつて玉名川の支流となる小さな川がありました。この川は、旧二本榎本町の正満寺墓地付近にあった湿地帯を水源とし、旧白金丹波町と旧二本榎町の境を流れていました。現在では樹木谷を潰すように桜田通りが拡幅され、土地もすっかり改変されて、流路はほぼ消滅しています。ただ、巨大な高層マンションがたつ一角の裏手にだけ、行き止まりの流路跡らしき路地が残っています。道路下には下水が通っていて、隣り合う家々からは、排水管の継ぎ手が飛び出し、路地の下に繋がっています。

明治期の地籍図を見るとちょうどこの付近に流路が通っています。路地に接続されるように、溝渠の痕跡も残っています。
(2016年再撮影)

樹木谷の石段

 樹木谷の最奥部は急斜面となっており、そこを上る、風情のある石段が残っていました。

石段の袂には、ちょっと変った意匠の古いマンホールが設置されています。

湿地帯の跡

 以前は階段のたもとの南側は荒れ地のようになっていましたが、2016年現在では、墓地の入口として整備されています。奥に見える墓地や、その裏にある小緑地が、かつての樹木谷の流れの水源だった湿地帯です。その昔は翁池と呼ばれる水源池があったともいいます。現在正満寺の境内には池が設けられていますが、かつての池や湿地と関係はあるのでしょうか。
(2016年再撮影)

 行き止まりの路地より下流の樹木谷の流れは、現在では高層マンションや桜田通りに呑まれ、全く残っていません。明治期の地籍図などからおおよその流路を現在の地図にプロットすると、下のようになります。
(地図出典:「国土地理院地図切り取りサイト」地図にプロット)

井戸多発地帯

 再び玉名川本流に戻ります。玉名川は樹木谷の小流を合流したあとは一旦桜田通りの東側、高輪1-17付近に流路を移します。この一帯は古い住宅が立ち並ぶ中を路地が縦横に通っていて、下町風情を残しています。流路跡は上の地図のように、ほぼ桜田通りの東側に沿った位置にあったようです。路地には、何箇所か、現役のポンプ式井戸が残っていました。

 古い木造家屋も何軒か残っており、しっかりした洗い場を持った井戸がその前に設けられています。こちらも現役で、よく手入れされています。
(2009年撮影)

 ふたつ前の写真の右側の井戸の、2016年時点での様子です。台座が修理され、注ぎ口がつけられています。
(2016年再撮影)

血洗いの池

 井戸密集地帯を通過した後、川は高松中学校と桜田通りに挟まれた狭い一角を流れていました。高松小学校の敷地の崖下には今での不自然なスペースがところどころ残されています。
(2016年再撮影)

 高松中学校は隣接する高松宮邸の敷地の一部を利用して戦後開設された学校で、構内南側は丘の斜面となっており、邸宅時代からの森林が残されています。江戸時代には熊本藩細川家下屋敷であり、1703年、赤穂浪士のうち大石内蔵助以下17名がここで切腹しました。学校の敷地の北側、台地の崖下の少し奥まった窪地内には、そのときに刀を洗ったという「血洗いの池」が今でも残っています。ふだn見学することはできませんが、2016年現在でもgoogle earthの3D表示で、木陰に潜む池が確認できます。
(出典:google earthのキャプチャ画像を加工)

 高松中学校付近で川は再び桜田通りの西側へと曲がり、北へと進んでいました。かつての流路は写真の道路右側付近を流れていました。この付近が玉名川の流れる谷の出口にあたり、この先は古川沿いの低地へと入っていきます。

護岸の跡?

 そして、立行寺の向かいで水路は一旦クランク状に右側(東側)に曲がってながれていました。松秀寺の敷地の北縁に沿って、今でも古く低い石積みの護岸状の土留めが残っています。
(2016年再撮影)

石橋の跡

 松秀寺の山門前、橋が架かっていたと思われる場所に回りこむと、石造りの欄干も残っていました。奥の水路の跡には植木や物置が設けられています。

 2016年現在、石橋跡の右側はマンションになりましたが、川の敷地はそのまま残されています。余計なものが撤去され、かえって細長い不自然な空地が目立つようになっています。
(2016年再撮影)

川跡の敷地

 この先で流路は更に左側に直角に曲がります。クランクの二曲がり目です。こちらもかつての水路の場所に、不自然な空地がアパートの裏庭のようになって残っています。

 空地を反対側から見たところです。水路はここを抜け右へと直角に曲がり、道路沿いを進みます。このクランクのコの字水路に囲まれた一角はかつて老増町という名のちいさな町でした。

 流路はすぐに北に直角に曲がり、再び立行寺前の道沿いに戻ります。なぜこのようにコの字型に流路が曲がっていたのでしょうか。道は旧白金志田町と白金三光町の境界となっており、かつて流路はその右側に沿って流れていました。かつて低層の家々が並んでいた一角では、再開発で、大きな高層マンションが建設中でした(※2005年時点)。

合流口

 川は道沿いにまっすぐ300mほど流れた後、新古川橋のたもとで古川に注いでいました。現在でも名残の合流口が口を開けています。撮影時はゴイサギが翼を休めており、また、写真でははっきりとは見えませんが、そのすぐ下の河原にはコサギが、そして古川に出来た砂州には鴨がいます。コンクリートに囲まれた殺風景な場所ですが、わずかに残る自然環境を頼って野鳥が棲息しています。
(2009年撮影)

 以上で白金分水、白金三光町支流、そしてこの玉名川と、白金台をながれていた支流の紹介を終え、次回からは麻布台東側の水系を追っていくこととします。

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