2016/11/21

【5−14】古川(1)天現寺橋〜古川橋

(※写真は特記ない限り、2005年撮影です。現状とはだいぶ異なっている区間もあります)

 ここまで渋谷川の水系を本流、支流にわたり紹介してきましたが、最後に天現寺橋より下流、「古川」と呼ばれる区間を河口まで追っていきます。この区間は全区間、暗渠化はされていません。最初に流域の段彩図を。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

天現寺橋と笄川合流口

 渋谷川は広尾の天現寺橋で笄川を合流します(→「【4−1】笄川水系の概要」参照)。そしてこれより下流、川沿いは渋谷区から港区に変わり、渋谷川も古川と名前を変えます。川沿いに道がある区間はほとんどないので、ここから先、主に古川に架かる橋の上から、川の様子を見ていきます。
 天現寺橋から狸橋の間は他の区間には見られない護岸となっていて、右岸の慶応幼稚舎から木々がせり出しています。(※2016年現在再改修)以前は天現寺橋に平行してすぐのところに慶應橋が架かっていたといいます。

狸橋と三田用水白金分水合流口

 天現寺橋の次の橋は狸橋です。白金分水の章(→「【5−5】三田用水白金分水(3)下流部と分流の痕跡」参照)で触れた通り、狸橋の名は橋の袂にあった蕎麦屋が、狸に化かされて木の葉のお金で蕎麦を食べられた伝承に由来します。狸橋から下流方向を見ると、白金分水の合流口が望めます。四角く開いた合流口はかなり古そうです。橋の南側はかつては福沢諭吉邸となっていました。

私設橋「青山橋」

 狸橋に続いて、亀谷橋、養老橋と、人しか渡れない小さな橋が続きます。いずれももともとは私設橋だったそうです。そしてその次に架かる「青山橋」も明治時代に架けられた私設橋で、1930(昭和5)年に鉄筋の橋に架け替えられたものが残っているのですが、現在では両端が塞がっていて渡れず、トマソン状態となっています。

※青山橋は一帯の護岸改修により、2011年撤去されてしまいました。
(2011年撮影)
五之橋と白金三光町支流合流口

 青山橋のすぐ東側に架かる五之橋は、1935年(昭和5年)の竣工で、青山橋と並び、古川に架かる橋では数少ない戦前からの橋です。水色の鉄骨が印象的です。たもとでは白金三光町からの支流(→「【5−6】白金三光町支流」参照)が合流しており、丸い排水溝が口を開けています。

戦前の護岸

 狸橋から五之橋にかけては、戦前の改修工事でつくられた古い護岸がそのまま残っている区間が多く、川底も土がむき出しとなっているようで雑草が生えていたり、鴨が泳いでいたりと川らしさを何とかとどめています(2016年現在、改修工事中)。しかし、五之橋を過ぎるとやがて、首都高速2号線が川面に覆いかぶさってきます。

白金公園橋からみた白金公園の親水テラス

 四之橋の下流側、高速道路がちょうど川面に架かる付近には白金公園橋が架かっていて、白金公園に繋がっています。公園には「古川の水辺に親しめるように」ということで親水テラスが設けられていますが、高速道路に覆われた陰気な水面に親しもうなどという人は果たしているのでしょうか。

四之橋

 四之橋では、川面は完全に高速道路の下となり、昼でも薄暗く暗渠よりも殺伐とした雰囲気を漂わせています。北岸には1698年、白金御殿が造成され、その際将軍が船で御殿に来られるよう四の橋まで川底が掘り下げられ満潮時には汐が入るようになりました。流れる水を見る限り、現在はおそらくもう少し下流、古川橋付近までは感潮域のような印象です。なお、四之橋近辺では麻布本村町からの支流(→「【5−2】麻布本村町支流(竹ケ谷ツ支流)」参照)が合流していました。

新古川橋から見た玉名川の合流口

 次の新古川橋はその名の通り、古川橋の上流側に1935年に新たに架けられた橋です。袂では、玉名川(→「【5−7】玉名川(2)樹木谷の支流と下流部」記事参照)が合流していました。現在でも暗渠の名残の合流口が残っています。

古川橋と新広尾町のスラム

 古川は水量の変化が激しかったせいか、川沿いは明治中頃まで空き地となっており、葦の生い茂る湿地となっていました。日清戦争が始まると川の南岸の空き地には板金やメッキ、鋳物といった町工場が並び、また沿岸の急速な都市化に伴い北岸沿いは明治末から大正期にかけてスラム化しました。スラムの立ち並ぶ、天現寺橋から一の橋にかけての川沿いの細長い区間は明治末には「新広尾町」となりました。
永井荷風の「日和下駄」の「第六 水」の章では古川橋近辺の様子が描かれています。
「溝川が貧民窟に調和する光景の中、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺いたあばら家は数町に渡って、左右から濁水を挟んで互にその傾いた廂を向い合せている。春秋時候の変り目に降りつづく大雨の度ごとに、芝と麻布の高台から滝のように落ちてくる濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳までを浸してしまう。雨が霽れると水に濡れた家具や夜具蒲団を初め、何とも知れぬ汚らしい襤褸の数々は旗か幟のように両岸の屋根や窓の上に曝しだされる。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘までが笊や籠や桶を持って濁流の中に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れてくる雑魚を捕らえようと急っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる場合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋から眺める大雨の後の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。」
現在では川沿いにはビルが建ち並び、川面は高速道路に覆われ、南岸にあった町工場のほとんどは高度経済成長期~オイルショック期に郊外移転して当時を彷彿させるものはなにも残っていません。
 古川橋下流側の右岸には、暗渠の合流口が開いています。こちらはかつて三田の寺町の湧水や下水を集めていた支流の暗渠です。合流口の周辺を見ると、護岸が作られた頃には開渠だったかのような痕跡が見えます。

支流の水路敷

合流口の真上には、水路敷が細長い空地として残っていました。(現在消滅)。
恵比寿駅付近より東に向かって流れていた古川は古川橋を過ぎるとほぼ直角に曲がり、しばらく北進して流れます。これより下流、河口までは次回の記事とします。

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