2016/11/26

【5−15】古川(2)二之橋〜河口まで

(※写真はすべて2005年撮影です。現状とはだいぶ異なっている区間もあります)

 引き続き、渋谷川の下流部古川を河口まで辿っていきます。まずは今回の範囲の地図を。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

三之橋と入間川

 古川橋から一の橋にかけて、古川沿いは胃袋のようなかたちをした低地が広がっています。この低地は江戸初期頃までは大きな池だったと推定されています。それを裏付けるように、関東大震災の際は周囲に較べ震度が大きかったことがわかっており、もともと沼地で地盤が弱かったことがその原因とされています。
 この池から流れ出す川の流路は現在の古川のそれとはと異なっていたという説も唱えられています。三の橋の東方、慶応大学の南側の三田台地が鞍部状に低くなっているのですが、川はそこから流れだし、東京湾へと繋がっていたのではないか、というのです。
 鞍部を越えた北東方向にはかつて、芝2丁目32付近から現在の「旧海岸通り」のところから東に「重箱堀」まで延びていた「入間川(いりあいかわ)」と呼ばれた堀割があり、周囲の町の下水が流れ込んでいました。この入間川は、もともとの古川本流の最下流部だったといわれています。新編武蔵風土記稿によれば、かつて三田村付近で古川と分かれ、荏原郡と豊島郡の郡界を流れて本芝町に至り、里俗入間川に通じ芝橋の東で海に流れていた、とされています。
 ただ、標高を見てみると、この鞍部は10mほどはあります。三之橋付近は標高5.5m前後、そして現在の古川下流方向の麻布十番付近は4.8〜5mと、自然に水が流ればこの鞍部を越えていたとは考えにくいところです。
 古川のかつての流路はこの鞍部ではなく、一之橋の手前から分かれて、三田の台地の北側を回りこみ流れていたとの説もあり、地形的にはこちらのほうが妥当に思えます。新堀川開削(後述)の時に、その大部分が埋められ、下流の入間川の区間だけ残ったのではないでしょうか。なお、入間川は江戸末期より護岸の崩れなどで埋まり始め、1918年には埋め立てられてしまいました。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)


二之橋と三田台地


 三之橋、そして南麻布一丁目児童遊園橋という小さな橋に続いて二之橋が架かっています。二之橋は、橋を渡ったところにあった毛利日向守屋敷に由来して、日向橋とも呼ばれていました。この付近の古川右岸(東側)は、南北に延びる三田台地の北端となっていて、左岸に比べだいぶせり上がっています。台地の上には明治時代には渋沢邸(栄一、敬三)、蜂須賀邸、三井邸、松方邸と屋敷が続いており、更に江戸時代に遡れば、大名屋敷が並んでいました。現在渋沢邸は見た会議所、蜂須賀邸はオーストラリア大使館、三井邸は綱町三井倶楽部、松方邸はイタリア大使館となっています。三井倶楽部内は三田台地の斜面に面していて、崖下には湧水池を利用した日本庭園があります。そして名水といわれた「渡辺綱の産湯の井戸」が残っているといいますが、残念ながら一般非公開です。

小山橋から

 二之橋の次に架かる小山橋は、もともと私設橋だったのが、1955年に区に移管されたといいます。橋の前後の古川沿いは、新広尾公園となっていて、ここにも護岸を一部きりとった親水スペースが出来ています。しかし、川の水は淀んでいるし、高速道路が多い被さっていて、やはりとても水に親しむ雰囲気ではありません。

一之橋と麻布十番

 小山橋の次は一之橋です。橋のたもとでは、がま池や宮村町からの流れや薮下からの流れをあつめた水路が合流していました(→記事「【5-12】芋洗坂〜麻布十番の流れ(吉野川)と柳の井戸」参照)。左岸の護岸からは湧水も流れ込んでいます。
 明暦の大火以後の江戸の都市改造に伴い、1675年、古川河口の金杉橋から一之橋までの区間を掘り下げ、川幅を広げて通船を可能とする改修工事がされました。沿岸には河岸(荷揚げ場)がつくられ、麻布十番には川から分けられた堀留がつくられました。
 一説によれば、古川の下流は先に触れたようにもともとは現在よりもう少し南寄りの入間川のルートが本流で、この工事により本流が付け替えられたとされています。金杉橋から一之橋の区間が「新堀川」とも呼ばれるようになったのは、この付け替えで新たに水路が作られたからだといいます。
 ちなみに「麻布十番」の地名は、この工事の際に工区にふられた番号のうちのひとつで、工事の完了後も長い間十番の標識が残っていたことに由来します。更にこの後1698年、白金御殿の造営に伴い、古川はさらに四の橋まで掘り下げられます。

一の橋下流から新堀橋

 古川は一の橋で再度90度曲がり、東へと流れていきます。ここより下流は汽水域(ここまでは感潮域)となり、常に海水の混ざった水が流れています。何となく潮の香りがするような気もします。奥に見えるのは新堀橋です。新堀橋の手前では、麻布狸穴町からの流れが合流していました(→「【5−13】麻布狸穴町の支流(青山上水排水路?)」参照)。

中之橋と赤羽河岸
 
 新堀橋の次の中之橋から上流方向を見た様子です。川幅は、16~17mほど。水はすっかり淀んでいます。護岸には潮の満ち干きの跡があり、川というより運河のような印象です。ここより先河口までは、高速道路が完全に流路と重なって蓋のようになってしまっています。
 中ノ橋と赤羽橋の間はかつて赤羽河岸と呼ばれる河岸でした。川の南側は明治初期には造兵廠が出来、造兵廠の荷揚げ場として倉庫が並びました。造兵廠が移転した大正期には青物市場が設けられています。
 造兵廠が移転した跡地は広大な空地となり、「有馬が原」とも呼ばれました。現在の都立三田高校付近には「有馬が池」と呼ばれる池があり、永井荷風「日和下駄」にも描写されています。池は三田台地の北東の斜面下にあり、湧水池だったと思われます。同じ敷地内には化け猫退治の芝居で知られる猫塚もあって、古墳跡だったとも、話題作りにわざと作った塚だったともいわれています。

赤羽橋と新堀河岸

 中之橋の次に架かる「赤羽橋」は、国道1号線が古川を渡る橋であり、交差点名や地下鉄の駅名としてもその名を知られています。ただ、橋そのものは高速の下に隠れ、あまり存在感はありません。古川はこの辺りでは「赤羽川」とも呼ばれていました。「赤羽」はもともとは「赤埴」だったとも言われています。「埴」は、埴輪の素材となるような、粘土質の土が取れる場所につけられることが多い地名です。川の左岸側に迫る芝台地の裾野には芝丸山古墳があり、古くから人が住んでいたことがわかります。
 赤羽橋から将監橋の間の南岸は「新堀河岸」という河岸でした。江戸期は薩摩藩の荷揚げ場として利用され、薩摩河岸とも呼ばれていたといいます。川沿いには舟運を利用した、木材、石材、薪炭などの商店が並んでいたそうです。現在でも赤羽橋下流側の右岸には現役の船着場があり、荷揚用のクレーン(写真奥の赤い柱)が設けられています。

芝園橋

 赤羽橋の次には芝園橋が架かっています。現在の橋は1984年に架け替えられたものですが、大正15年の架橋時の親柱がそのまま残されています。

将監橋と桜川合流地点

 将監橋の北側では桜川が合流していました。桜川は関東大震災後の復興計画のなかで暗渠化されましたが、現在でも古そうな石組みに囲まれた、暗渠の合流口が残っています。桜川は江戸時代のいわゆる下水(上水でない市内水路)で、遡って行くと神谷町から溜池、赤坂を経て、四谷三丁目の鮫河谷にいきつきます。こちらについては別の章を設けて紹介することとします。

瘡守稲荷

 将監橋の北西の袂には、通元院という芝増上寺の末寺があります。一間普通の住宅のような目立たないお寺ですが、その入り口に瘡守稲荷(かさもりいなり)大明神の祠があります。皮膚病治癒の稲荷社です。祠の前の石塔は、元禄7年(1694年)造立の納経石塔で港区の文化財となっています。

金杉橋の船溜まり

 古川は金杉橋近辺では「金杉川」とも呼ばれていました。川面には釣り船や屋形船がたくさん繋留されています。川の南側にあたる金杉町は、明治初期までは漁師町で、江戸城へ献上する魚も獲られていたそうです。

船宿

 金杉橋下流側の左岸(北側)はかつての町名を湊町といい、現在では船宿が何軒か並んでいます。写真はその中の一軒、「縄定」で、もともとは漁師を営んでいたそうです。船宿の屋形船はここから隅田川や東京湾へと繰り出していきます。

新浜橋

 浜松町のJR線東側、新浜橋から見た古川です。ここにも船が繋留されています。古川の左岸側は明治初期より東京瓦斯の敷地となっていて、現在も東京ガスの本社が建っています。そして、右岸側は明治中期に芝浦製作所の工場が出来ました。こちらも現在敷地がそのまま東芝の本社となっています。

浜崎橋ジャンクション

 川を覆っていた首都高速道路は浜崎橋ジャンクションで左右にわかれ、古川はようやく空を取り戻します。が、ここはすでにほとんど海です。芝浦運河が南側から合流しています。

古川河口
 
 古川は新浜崎橋の東側で、東京湾に注ぎ込んでいます。河口の直前にはもうひとつ、小さな橋がかかっていますが、名前はわかりません。海の向こう側にはレインボーブリッジが見えます。水源の新宿御苑から11km、渋谷駅で地上に姿を現してから7km、天現寺橋で古川と園名を変えてからだと4.4km。今でも新宿御苑にふった雨水、わき出した湧水の一滴がここまでたどり着くことはあるのでしょうか。

 以上で、「東京の水 2005 Revisited 2015 Remaster Edition」、"第1部 渋谷川水系の川と暗渠をたどる" を終わりにしたいと思います。2005年取材当時の写真を中心に、「東京の水」オリジナル版の1997年取材時の写真や、最近の再取材写真を交えてここまで渋谷川・古川水系を追ってきました。たった10年、されど10年。変わらない風景もあれば、ずいぶんと変った風景もありました。そしてこれからも東京の水をとりまく風景は変わっていくことでしょう。ひとつの時期の記録として今一度最初から読み返していただければと思います。
 ひきつづいて第2部では、将監橋で合流していた桜川の水系を、渋谷川・古川水系の姉妹編として取り上げていきます。桜川を上流に向かって辿っていくと、いきつく水源は渋谷川の水源のすぐ近くとなり、都心の南半分を反時計周りにぐるっと辿るかたちになります。



0 件のコメント:

コメントを投稿