2016/01/11

【3-3】三田用水鉢山口分水

(※写真は特記ない限り、2005年撮影のものです。)
今回は、「三田用水鉢山口分水」を下流から上流に向かって遡っていきます。まずは地図を。青が自然河川、赤が用水路、点線は暗渠・川跡、実線は現存する河川となっています。

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

並木橋近くの暗渠

 三田用水鉢山口分水は、三田用水を旧山手通り西郷橋近辺から分水し、鉢山町、鶯谷町を流れていました。鶯谷町は桜丘町、鉢山町、南平台といずれも丘を意味する地名に囲まれており、流路はかなりはっきりした谷となっていて、分水が引かれる前から小川が流れていたようです。
 水路は1960年代に暗渠化されましたが、それまでは並木橋の袂、現在再生水の流入口となっている辺り(前回記事参照)に合流口がありました。南西側には細い路地となった未舗装の暗渠が残っており、山手線の線路沿いに突き当たるまで続いています。
 この暗渠は大正末の改修で作られたいわばショートカットの水路で、それまでは渋谷川西縁の水田に水を供給するため、山手線の線路沿いをもう少し南側まで迂回して流れてから、氷川橋のところで渋谷川に合流していました。合流地点には明治末まで水車が架けられていました。地面には大正末期の改修時のままと思われる大谷石の護岸が埋もれて残っています。


※2015年現在、この暗渠はアスファルトで舗装されています。

鶯谷

 山手線線路を西側に越えると鶯谷町となり、その名の通り谷となります。かつてはこの谷は「長谷戸」と呼ばれ、細長い谷底に水田がつくられていました。また、鉢山口分水は全長1kmほどですが、分水点から合流口までの標高差は20mもあり水流が強かったため、8箇所も水車が設けられていました。写真の場所近辺にも「鴬谷水車」がありました。川に堰を設け、広さ12畳ほどの水車小屋に直径3.6mほどの水車が架かっていたそうです。

 なお、上の写真の道路の場所には、明治末期の水田が広がっていた頃までは水路が通っていましたが、その後の宅地化に伴って水路はこの道と離れて平行する崖の下の水路にまとめられました。下の地図は1962年の住宅地図ではその水路が確認できます(青く加工したライン)。また、すでにこの時点でなくなっていた下流部を桃色の点線で書き込んでみました。児童遊園の西側には銭湯「鶯湯」の記載もみられます。
(地図出典:「東京都全住宅航空図帳渋谷区版 昭和37年度版」)

崖沿いの水路跡

 鶯谷児童遊園地の南側の崖沿い、最後に水路が通っていた場所から西(上流方向)を見たところです。ここには下水道が通っており区道扱いの水路敷のはずなのですが、私有地化していたりマンションの敷地内になっており、入ることができません。

川沿いの土手

 公団うぐいす団地脇の「鴬谷二号階段」を降りるとようやく遊歩道となった暗渠を辿れるようになります。この近辺に「鶯谷」の由来となった「鶯橋」が架かっていたそうです。左手の土手は明治時代の地図にも描かれており、当時ののどかな風景を彷彿させます。(※2016年現在消滅)

長谷戸水車

 緑に侵食された大谷石の擁壁が川の面影を残しています。この辺りに1889年(明治22年)~1916年(大正5年)にかけて「長谷戸水車」がありました。「渋谷川上流(3)」で触れた渋谷小学校維持費捻出のための水車「宮益水車」の所有者が代わった為に、新たに設置された直径3m(のち3.5m)の水車で、当初は米搗、後には製紐用の動力として、その利用料で学校運営を行っていたそうです。

鶯谷一号階段

 こんどは「一号階段」が現れます。暫く暗渠を遡っていくと行き止まりとなってしまいます。

苔むす擁壁

 道をまわりこむと鶯谷町と鉢山町の境界から、再び暗渠が現れます。崖を覆うコンクリートの擁壁が苔むしていて、水の気配を感じさせます。

最後の階段

 しかし、しばらく進むと鉢山町に入ってすぐのところで、大きな段差が現れます。階段を上がると南平坂から続く道に出て、そこから先はぷつりと痕跡が切れています。段差は大正期に南平坂の通りが出来たときに盛り土でできたといいます。大正期までは更に上流、南西方向に、杉林の中に谷と水路が続いていたのですが、大正後期から昭和初期にかけての宅地化造成で、ここより上流はなくなってしまったようです。

下の写真は同じ階段の、1997年の様子です。当時は階段の直前まで苔むした擁壁が続いていました。
(1997年撮影)


西郷橋

 鉢山町10番地と11番地の境目の道を進んでいくと道はやがて切り通しとなって、山手通りの西郷橋にたどり着きます。上を通っているのは旧山手通りで、この付近では三田用水が平行して流れていました。三田用水はちょうど渋谷川水系と目黒川水系を分ける尾根上を通っており、西郷橋を抜けた反対側は、段差20m近くの急斜面となって目黒川沿いの低地が広がっています。
 西郷橋は、もともとはその三田用水が切り通しを越えるための水道橋であったのが、1939年に山手通りが開通した際に、陸橋として作り替えられたといいます。実際には橋というよりはトンネルのようなつくりをしており、三田用水をしばらく下っていったところにあり、同じく切り通しを用水が越えるところにあった「茶屋坂隧道」とも似ています(※2003年に取り壊され現存せず)。
 鉢山口分水はこの西郷橋のたもと付近で三田用水から分水されていました。切り通しが出来る前から用水の流れる尾根とはかなりの落差があり、それを利用して最も効率のよい、水車の上に水を落として回転させる上掛け方式( ̄○_といったかたち)で水車が設置されていました。

 水をひいてすぐのところにあった「角谷水車」は直径3.6m(ちょうど写真のトンネル内の高さと同じくらいです)で、蒸気動力を併設してこの道路のあたりにあった角谷製綿工場を稼動させていました。当時の様子を描いた絵が残っており、三田用水から掛樋で水車小屋に引かれる水路が描かれています。


 他にも直径5.4mの水車と直径4.5mの水車も架かっており、米搗きや製紐に利用されていました。水車はいずれも大正初期には廃業しましたが、落差を落ちる水は残っていたようです。大岡昇平の「幼年」に、この辺りの風景が詳細に描かれています。

「この位置は今日の鉢山町10番地である。付近一帯の丘陵は当時「西郷山」と呼ばれていた。西郷従道の持山だったからで、どこかに別邸があったかも知れないが、私たちにはそんな建物はどうでもよかった。現在では細かく分譲されて住宅が立ち並び、谷間の道は商店街になっているが、その頃この十字路から先は尽く林の中の淋しい道で、家は一軒もなかった。さらに西に進むと、道はすこしカーヴしながら上りになる。そして小さな滝がかかっていたのを憶えている。
滝の水はその上の稜線に石で築いた狭い水路を盛大に流れる上水から来ていた。下北沢で玉川上水から分かれて来る枝上水で(略)「三田用水」である。」

 次回は三田用水を西郷橋から400mほど下ったところで分水されていた、三田用水猿楽口分水を辿ってみます。

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