(写真は特記のない限り2005年撮影のものです)
続いて、三田用水道城口分水の合流点のやや上流で渋谷川に合流していた「いもり川」を上流から辿ってみます。いもり川は渋谷区渋谷4丁目、青山学院東門辺りの低地から流れ出し、鶴沢~羽沢と呼ばれた谷筋を、川沿いの池の湧水をあわせて北から南に流れ渋谷川に注いでいました。現在全区間が埋め立てられたり暗渠となっています。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)
いもり川の水源
水源だった青山学院一帯はもとは伊予西条藩の下屋敷で、青山学院東門のそば、現在「ウェスレーホール」が建っている場所に水源の湧水池がありました。この池は明治初期にはなくなっていたという説もありますが、明治19年内務省刊行の「実測東京全図」にはしっかりと描写されています。1991年に一帯の遺跡発掘が行われた際にこの池も存在が確認されましたが、かなりの水量が湧き出し途中までしか発掘できなかったとのことで、現在でも水脈が残っていることが窺われます。
大岡昇平の「少年」に掲載の大正後期の地図ではこの池はなくなっていますが、ここより南側に池があったことが記されています。
「中学部の校舎の東側、雨天体操場とは反対の方角に理化学実験室があった。木造平屋建の陰気な建物だったが、校舎より5メートルばかり低くなっている。その辺から外人居住地区の東南にかけてずっと低地が続いていて、池があった。一つの流れが流れ出し、羽根沢の赤十字病院の北側まで続く窪地をつくっている。末は広尾で渋谷川に合する。渋谷の古名「谷盛荘」の痕跡を残したイモリ川である。」
(地図出典:大岡昇平「少年−ある自伝の試み」1975)
六本木通りからみたいもり川跡
現在青山学院構内の谷筋には校舎が立ち並び川の痕跡はありません。東京オリンピック時に開通した六本木通りの南側、川跡を通る道路沿いに常陸宮邸がありますが、その緑だけが往年の風景を偲ばせます。
常磐松の池と東京農学校
写真の道路の辺り、最終的には道路の西側に沿って、いもり川が流れていました。奥の森は常陸宮邸です。一帯は薩摩藩島津家の屋敷から明治初期に常磐松御料地となり、明治末まで御料乳牛場として皇室用の牛乳を生産していました。
いもり川の谷の斜面は針葉樹の林となっていて、写真右側、南青山7-1の窪地には戦前まで「常磐松の池」がありました。そして谷底にはいもり川にそって細長い水田が続いており、1898年敷地に御料地の一角にキャンパスを開いた東京農学校(のちの東京農業大学)が、演習田として利用していました。(学校は空襲での焼失をきっかけに、1946年に世田谷に移転)
暗渠跡と常盤松、川名の由来
東4丁目交差点の五差路の南側に階段で下りる暗渠が残っています。一帯はもともとは常磐町という町名で、交差点から西に少し進んだところに、戦前まで「常盤(常磐)松」と呼ばれる松の老木がありました。戦争で焼けた現在は「常盤松の碑」だけが残っています。
いもり川というユニークな名称の由来にはいくつか説があります。川にイモリが生息していたからという説が一般的で、実際腹に赤い斑点のあるイモリが多く棲息していたようです。一方で渋谷一帯の中世の呼び名であった「谷盛庄」に由来する説もあります。そしてこの常磐松に関連する由来として、源義朝の側室であった「常盤御前」が牛若丸など3人の子供を連れてこの近辺を通りかかった際に、流れていた小川で子供や自分の「いもじ」(腰巻)を洗い、そばにあった松の木に掛けたことから、この松を常盤松、小川を「いもじ川」と呼ぶようになり、のちに「いもり川」に変化したという言い伝えもあるそうです。常磐松の樹齢は400年ほどだったとのことなので、時代はあいませんが。
なお、皿は割れやすいということで縁起を担いで、町名の「盤」はのちに「磐」の字に置き換えられました。
谷の西側の崖に沿って、暗渠が蛇行しています。この区間は通り抜ける人も少なく周囲から隔絶されていて、秘密基地のような雰囲気を漂わせています。
しばらく進むと暗渠は階段となって途切れてしまい、もとの六本木通りからの道に戻ります。この先から「いもり川階段」までの区間は戦前には暗渠化されていたようです。
地籍図に見るかつての流路
暗渠化される前のルートは昭和初期の地籍図で確認できます。左上がさきほど取り上げた暗渠となっている区間。そしてその先、通りから東側にはみ出して蛇行している様子が伺えます。現在この部分の痕跡はありません。
(地図出典:内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」(1935)を加工)
いもり川階段と羽沢の池
東京女学館の南側まで来ると「いもり川階段」があります。ここを降りると再びはっきりした暗渠が現れます。東京女学館の場所には大正13年まで感化院があり、その構内に湧水池「羽沢の池」がありました。
羽沢(羽根沢)という地名も常磐松と同じく源氏関係の由来が伝えられています。それによれば、鎌倉時代、源頼朝の飼い鶴がこの地に飛んできて卵を産み、かえったヒナが初めて羽ばたいたので羽沢や鶴沢と呼ばれるようになったそうです。
一方で、「赤羽」「羽根木」など各地にある「羽」のつく地名は粘土や泥を指す「埴(はに)」という言葉と関連が深いと考えられており、この羽沢の地名も粘土質の土が取れる地層が露出していた場所だったのかもしれません。
急傾斜
暗渠沿いの土留めの石垣を見ると、かなりの傾斜であることがわかるかと思います。ふだんはアメンボの泳ぐ静かなせせらぎであったけど、雨の後などはかなりの急流となり、上流からカエルが流されてきたりしたそうです。
※2016年追記:現在この付近の風景は激変しています。
暗渠の道
いもり川階段より下流部は1960年代後半まで開渠で残っていたようです。写真の区間は暗渠化直前は道路に並行して川が流れていました。
古い塀
いもり川の流れる羽沢は深いV字谷となっています。谷底の幅は50m足らず、両側の台地とは12mほどの標高差となっています。写真の坂は100m足らずでその標高差を下るため滑り止めがついています。何か由緒ありそうな古い塀が残っていました。
※2016年追記:この塀は2010年には消失しました。
羽澤ガーデン
反対側の斜面には満鉄総裁の邸宅跡を利用した「羽澤ガーデン」があります。満鉄総裁や東京市長を務めた中村是公の邸宅を利用した高級料亭・結婚式場・レストランで、1915年(大正4年)に建てられた邸宅は、戦後しばらくはGHQの宴会場としても使われていたといいます。一方で庭園は近隣の住民にも開放されていて、地域のオアシス的な存在ともなっています。
※2016年追記:羽沢ガーデンは2005年末に営業を終了。跡地にはマンション建設が計画されました。近隣や文化人による反対運動や訴訟が起こりましたが、最終的には、2012年渋谷区より開発許可が下り、邸宅や庭園は取り壊され、2014年にはマンションが竣工しました。
大谷石の崖沿い
川は谷底の東縁を流れていました。川の左岸、大谷石の擁壁となっているところは、かつては針葉樹の茂る急斜面となっていました。右岸側は細長く延びる水田地帯となっていたようです。
ささやかな暗渠
一方、谷底の西縁を通る道路にも、大正末期〜昭和初期頃までは水路が残っていたようです。もともとは谷底の両側に水路を通し、その間に水田を設けてそれぞれの水路を水田に給水・排水に利用していたのでしょう。両側の水路を結んでいた水路の名残と思われる、コンクリート蓋の暗渠が残っています。
(2010年撮影)
歩道のマンホール
羽沢の谷は臨川小学校の北西側で渋谷川の谷に出て終わります。道路の歩道のところをマンホールの続く暗渠が通っています。臨川(りんせん)小学校は1877年(明治10年)に開校した下渋谷地区で最も古い小学校で、渋谷川を臨む立地からその名がつけられたともいわれています。
日本の理髪鋏の原点となった合流地点
暗渠は明治通りを越えて児童遊園の下で渋谷川に注いでいます。明治通りには「どんどん橋」がかかっており、最近まで欄干が残っていたそうです。橋の名前の通り、いもり川が渋谷川に合流する手前の地点は滝になっていて音が響いていたそうです。
この落差を利用して明治期には水車が設置されました。最初に設置したのは国産初の理髪バサミを作った友野義国です。もともとは刀職人だった彼は、西洋のハサミを参考に1877年(明治10年)、指輪の接点に長めの突起を持ち、また指輪にも傾斜をもたせた日本独自のハサミを作り出しました。そして水車の動力を利用し、鋏の製造を試みました。結局水車の動力が足りずに、穴開け程度にしか利用できなかったといいますが、彼の考案した鋏の形態は現在の2本の理髪バサミに引き継がれているそうです。そののちには「ミルク製造用」の水車が改めて架けられたそうです。
下の写真はいもり川の合流口です。といっても今では下水となった暗渠がオーバーフローした時の排出口となっていて、基本的には水は流れていません。(写真で流れ出しているはこの区間で湧いた水か、あるいは一時的な工事などの影響でしょうか)
明治時代まで、この辺りの渋谷川沿い北側は、わずかな水田を挟んで梅の花が咲く土手となっていて、つくしやたんぽぽが生え、水際ではセリが採れたそうです。そして土手と水田の間には湧水も湧き、野菜の洗い場となっていたとか。また、対岸(道城口分水が合流するあたり)は杉林だったそうです。今では全くその面影はありません。
次回は1990年代末まで一部が残っていた道城口分水(火薬庫分水)を紹介したのち、渋谷川が古川と名前を変える広尾橋まで辿っていきます。
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