(写真は特記のない限り2005年撮影です。)
まずは笄川本流を上流から下っていきます。
ぼちぼち通り
地下鉄銀座線外苑前駅の南側、梅窓院の西側から笄川(こうがいかわ)の本流と言うべき流路の暗渠が始まっています。この暗渠の通りは、墓地の横を通っているという理由で「ぼちぼち通り」と名づけられています。梅窓院は、江戸時代この一帯を下屋敷としていた美濃郡上藩主青山幸成を荼毘に付した場所に1643年に建立された寺で、青山家代々の菩提所となっています。梅窓院一帯は青山墓地の台地西側の谷の谷頭にあたり、かつては湧水や谷に集まる雨水が笄川の源となっていたと考えられます。川は「笄開川」「親川」「龍川」とも呼ばれていたといいます。
西側流路の暗渠
ぼちぼち通りをすこし下るとすぐに、西側に細い暗渠が分かれます。ここから先は2本の水路が、谷戸の斜面沿いの両側に並行して流れていました。そして間の谷底には水田が細長く続いていました。東側の暗渠は外苑西通りの下敷きとなってしまっていますが、西側の方は路地として辿ることができます。こちらを追っていきます。下の写真は1997年の撮影です。垢抜けた青山通りのすぐそばに、大谷石の擁壁や木の柵といった、ひっそりとして鄙びた風景が残っています。
(1997年撮影)
段差と階段
外苑西通りと交差する場所は数メートルの段差となっていて、階段が設けられています。
外苑通り西側へ
外苑通りの反対側にも階段があって、暗渠が続いています。階段に続く暗渠は、しばらくの区間は綺麗に敷石が敷かれて遊歩道風になっています。
路地裏
しかし、少し下って行くと再びアスファルト舗装の暗渠に戻ります。谷は大きくS字型にカーブしており、暗渠はその西側の斜面の下を流れていきます。東側の水路は外苑西通りに飲み込まれてしまい地上の痕跡はほとんどありませんが、道路の下には川だった頃のカーブをそのまま残した暗渠が通っています。南青山2-31のガソリンスタンドの東側で、外苑西通りが少し青山墓地側に出っ張っている部分は川の流路の名残で、かまぼこ型の暗渠がこの部分を通っています。
原宿村飛地
二つの川筋に挟まれた細長い土地は「五反田」と字名のついた原宿村の飛地となっていて、明治中頃まで水田となっていました。長者丸支流(後述)の方に住んでいた歌人斎藤茂吉の短歌にこの近辺の水田風景を詠んだと思われるものがあります。
青山の 町蔭の田の 畦道を そぞろに来つれ 春薊(あざみ)やも明治後期にはこれらの水田は消滅しました。水田の一部、先ほど触れたガソリンスタンドの付近には金魚の養殖池ができ、明治後期から戦前にかけての地形図を見ると、その様子を確認することができます。
青山の 町蔭の田の 水錆田に しみじみとして 雨ふりにけり
下の写真は1997年、暗渠を上流方向に眺めた様子です(※今では周囲の建物の大部分が建て替わっています)。
(1997年撮影)
外苑西通りと青山墓地
東側の水路は青山墓地の土手直下、外苑西通りの場所を流れていました。写真の辺りでは道路西端(左側)の地下を下水幹線になった暗渠が通っています。
青山墓地は1874年、青山氏屋敷跡に神葬墓地として設立されました。明治になり「神仏分離令」が出されて、墓を必ずしも寺院の墓地に持たなくてもよくなったことに伴うもので、都内各地にこのような神葬墓地がつくられました。現在11万人ほどが埋葬されているとのことで、港区のこの一帯の人口(赤坂支所管内)が約3万人ですから凄い数です。「死者の都市」といえるかもしれません。
青山橋
先の外苑西通りの写真は、長者丸支流と根津邸支流に挟まれた台地から、笄川本流の谷を越えて青山墓地の台地にかかる「青山橋」から見下ろしたものです。谷はかなり深く、谷底と台地の標高差は12mもあります。写真奥に見える緑の丘は立山墓地で、青山墓地に先立ち1872年に設立された神葬墓地です。このふもとに沿って右から左に向かって長者丸支流南水路が流れていました。
青山橋から見下ろす暗渠
再び青山橋から、今度は西側水路の暗渠を上流方向に向かって見下ろしてみます。左側、大谷石の擁壁の下を通る路地が西側水路です。一帯は少し前までは家屋が密集していましたが、取り壊されて駐車場となっています。右側の、電信柱の並ぶ色の違うところはもともとは家々の間の路地だったところです。(※2016年現在、路地跡を潰し二つの暗渠の間の谷戸を塞いで、大きな高級マンションが建てられています。)
長者丸支流の合流地点
青山橋の直下付近では、「長者丸支流(仮称)」が合流していました。写真左中ほどからの道が長者丸支流の北側水路(こちらも谷戸を2本の水路が流れていました)、右中程からの道が笄川本流西側水路で、ここで合流し右下に続く道のところを下っていました。次回はこの長者丸支流を辿ってみます。
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