2016/01/14

【3-4】三田用水猿楽口分水

(写真は特記のない限り2005年撮影のものです)

 三田用水鉢山口分水に引き続いて、今度は三田用水猿楽口分水を上流側から辿ってみます。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

分水地点

 猿楽口分水は、鉢山口分水の分岐点であった西郷橋から、旧山手通りを350mほど南東に進んだ猿楽町18番地で三田用水から分水されていました。分水口のそばには6~7世紀の古墳時代末期の円墳である猿楽塚があり、町名の由来となっています。流路は三田用水から分かれて写真の道路の位置をまっすぐ下ったあと、猿楽町20番地付近で右(東)に折れて代官山駅のある谷筋へと流れていました。現在水路の痕跡はまったく残っていません。
 流路が折れる場所には水車小屋があり、直径7.5mもある渋谷地区最大の水車が廻っていました。明治時代後期の地形図を見ると、どうやら三田用水の分水点からこの水車までの水路は築堤をつくりその上を流していたようで、これにより落差をつけて上掛けで水車を廻していたようです。

地籍図に見る水路

 猿楽口分水は、もともとは三田用水が上水だった時代、1719年(享保元年)に、渋谷川沿いの御用地の池であり白鳥の餌付け場だった「田ごめ池」(田子免池)の水を引くために分水されたといわれています(後述)。餌付けは1745年頃には取りやめとなり、その後は灌漑用としての用途がメインとなったと思われます。分水は東横線代官山駅付近の細い谷戸や渋谷川沿いにひらかれた水田に水を送っていましたが、大正期以降は流域の市街地化でその役割を失っていきます。
 現在、水路の大部分は道路や建物となっていて痕跡はほとんど残っていませんが、昭和初期の地籍図をみると市街地化後の流路が確認できます。地図左下、三田用水から分かれた分水は道路の右側を流れていきますが、ちょうど上の写真で道路の右側に不自然な幅広の歩道があるのに対応しているように思えます。
(地図出典:内山模型製図社「東京市渋谷区地籍図」(1935)を加工)

代官山駅前

 八幡通りから代官山駅前にカーブしながら下っていく道です。左手が「代官山アドレス」で、かつては同潤会アパートが並んでいました。水路は上の地図でも判るように、道路の右側に沿って流れたのち、道を離れて代官山駅の南側をいったん回りこんでいました。

東横線と同潤会アパート

 もともと川沿いの谷底は水田に、斜面や丘は林になっていましたが、1927年(昭和2年)、谷に沿うように東急東横線が開通し、代官山駅が開業します。そして丘の斜面には同時期に同潤会アパートが竣工しました。同潤会は関東大震災後、不燃の鉄筋コンクリート造住宅を安定供給することを目指して設立され、当時としては非常に近代的な住宅を都内各地に建設しました。代官山の同潤会アパートは、後年、木々の鬱蒼とした緑に包まれた谷の斜面に家屋が点在する独特の風景が名物となっていましたが、1996年に取り壊されて大々的に再開発が行われ、今では「代官山アドレス」の高層マンションが聳え立っています。下の写真は在りし日の同潤会アパートの一角です。
(1993年撮影)

空き地として残る流路跡

 代官山駅の北西側には、わずかに流路跡が空き地となって残っています。猿楽口分水で、はっきりと流路跡が判るのはこの場所だけです。

新坂橋

 そして、流路跡のすぐ傍、東横線の踏切脇には何と「新坂橋」と書かれた橋が残っています。

 橋は欄干の片側の全体が残っており、線路側の親柱には大正十三年と彫られています。同潤会アパートや東横線よりも古く、関東大震災の頃からこの場所にあったこととなります。ブロック塀の裏側がさきほどの流路跡となります。

赤煉瓦の架道橋

 流路は東横線沿いの道に沿って流れた後、山手線に突き当たる地点で90度右に曲がって南下し、恵比寿西1丁目交差点で東に曲がり道路に沿って山手線の「庚申橋架道橋」をくぐっていました。架道橋は煉瓦造りとなっており、関東大震災前、もしかすると明治18年の山手線開業当時からのものかもしれません。
 流路はそして庚申橋西交差点のところで再び北に曲がって、比丘橋下流側で渋谷川に合流していました。このように流路が大きく迂回しているのは、渋谷川右岸(西側)に広がる水田に水を引き入れるためでした。これらの水田は渋谷川の水位が低いため、より高いところから流れてくる猿楽口分水の水を利用していたのです。


大正末の地図に見る下流部

 大正末期の地図では、下流部で水路が迂回していた様子を確認することができます。この時点ではまだ東急東横線は開通していません。代官山から流れてきた水路は山手線の線路にぶつかったのち南下しています。線路沿いの水路は山手線開通後に出来たようです。
(地図出典:「東京府豊多摩郡澁谷町平面圖」1926)

最下流部

 最下流部の流路があった辺りには現在細い道路が通っています。そこにはまったく川が流れていたころの面影はありません。

比丘橋と田子免池

 渋谷川に架かる比丘橋の下流側に、かつて猿楽口分水が注いでいた名残の雨水合流管が口を開いています。天現寺橋までの「渋谷川」沿いでは唯一この一角だけ、川沿いに直接道路が接しています。
 先に記したように、比丘橋と氷川橋の間の渋谷川西側には、かつて白鳥の飼付場としても利用された「田子免池(たごめんいけ)」がありました。1745年頃の白鳥の飼付は取り止め後、周囲は水田となって、田子免池は徐々に埋め立てられていったようです。明治38年には火力発電所が出来、わずかに残った池に渋谷川の水をひき冷却用として利用していました。発電所は周囲への煙害のため、できてすぐに電力不足のときだけの稼働となったそうです。そして池は関東大震災後、瓦礫で埋め立てられなくなりました。現在この場所は東京電力の変電所と都バス車庫となっています。

0 件のコメント:

コメントを投稿