2016/07/07

【5-9】麻布宮村町支流(1)がま池からの流れ

(※写真は特記ない限り、2005年撮影のものです)

 前回まで、古川右岸(南側)、白金の台地に発する支流をたどってきましたが、今回以降は左岸(北側)の「麻布山」の東側、六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れていた小川をたどってきます。これらの川は最終的には「赤羽川」「吉野川」などと呼ばれた流れに集まり、一の橋で古川に注いでいました。
(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

 今回は旧麻布宮村町の谷を流れていた細流のうち、現・元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた枝流をたどります。

 麻布の「がま池」

  「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされています。このガマガエルに関する伝説にはいくつかのパターンがあるようです。もっとも知られているのは、江戸時代、池の敷地を屋敷としていた山崎氏の家臣をこの蝦蟇が食い殺してしまい、これに怒った山崎氏が蝦蟇退治をしようとしたところ、夢枕に蝦蟇の化身の老人が立ち謝罪をして、償いに屋敷の防火を約束したというもの。こののち一帯が大火事となったとき、この蝦蟇が池から現れ水を噴き出して延焼を防いだということです。それ以来、池は蝦蟇池と呼ばれるようになり、また池の水で溶いた墨で「上」の字を書いたお守り「上の字様」が、防火や火傷除けとして大流行したそうです。「上」の字を書いたお守りは今でも麻布十番稲荷で売られています。

  明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれています。この時点で池の広さは1600平方メートル。この頃は個人の邸宅の敷地内となっていたようです。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いています。点線で描画されている区間は暗渠だったと思われます。
 (地図出典: 五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年刊行))

 がま池の説明板

  池のあった付近の道路端には、1975年に港区教育委員会が設置した説明版があります。ただ、この看板のそばには池は全く見えず、どこに池があるのかよくわかりません。周囲を歩きまわってみると、池の南側にある駐車場の一角から、木々の隙間越しにがま池の水面を覗くことができます。

小さくなっていったがま池

  がま池は周囲の造成や宅地化に伴って徐々に埋め立てられていき、1970年代初頭の時点では1200平米になっていました。そして、1972年には池の北側半分を埋め立ててマンションが建ち、池はマンション居住者専用の庭として囲い込まれてしまいました。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまいました。
  さらに2002年にはマンションの建て替えにより3割近くが埋め立てられ、更に池は小さくなってしまいました。 現在の池の広さは地図から判断するとおよそ600平米。周囲90m弱の長円形をしており、主に循環水で水面を維持しています。明治期の地図に描かれていた中島はかろうじて今でも残っています。

保存運動の看板

 今でも池の周囲の住宅地のあちこちに、2002年のマンション建替え時に起こった反対運動の看板が残っています(※2005年時点)。
 保存運動のときの成果か、マンションの入り口には、申し出ればがま池の見学が出来る旨が書かれています。しかし、インターホン越しに管理者に訊いてみたところ、最近空き巣などの犯罪が多いので一時的にとりやめているとのことでした(※2005年時点。その後年をあけ何回か訊いてみましたが、いずれも公開していないとの回答ばかりで、有名無実となっているようです)。

がま池から続く谷

 池の北側へ向かいます。かつて池からの小川が流れていた谷は、三方を崖に囲まれた小さく深い窪地となっています。再開発の手も今のところ入っておらず、小さな家屋が密集し、谷の向こうに見える六本木ヒルズとは対照的な風景となっています。


宮村児童遊園の湧水

 谷の東側の崖に沿う宮村児童遊園の一角には、わずかですが湧水が残っています。写真の池のようなところに湧水が集められています。水の多い時期には池のようになっていますが、このとき(2005年6月)は水量はわずかでした。

 崖の下のいくつかの湧水地点から、水を溝に集めているようです。水草が生えていて、常時水があることを忍ばせます。

路地の風景

 谷底の住宅地は、公園から更に一段下がっています。谷底は隣接する本光寺の所有地で、明治時代前半までは水田となっていましたが、明治後期に宅地化されました。谷底の住宅地には行き止まりの細い路地が何本か伸びていていて、かつては麻布界隈のあちこちで見られた下町風の風景が、今でも残っています。
(2011年撮影)

響く湧水の音

 一番奥(南寄り)の路地から公園の方向(東)を見ると、木造家屋の向こうに元麻布ヒルズが聳え立っているのが見えます。手前の路上に見える雨水桝には、右(北)側から続くU字溝から湧水が注ぎ込んでいて、水音が響いています。住宅地の裏側の崖下から流れ出しているようです。
(2011年撮影)

がま池からの水路跡

 かつてがま池やこれらの谷に湧く水を集めて流れていた小川は、公園の西側に沿ってその痕跡を残しています。未舗装の路地に、粗く積まれた擁壁が風情を出しています。路地の細さに比してマンホール径が大きいのが印象的です。
(2010年撮影)

 この水路は昭和初期までには下水化されたようです。未舗装の路地は、人がすれ違えないくらいの細いアスファルト路地となって更に北に続いています。右側に迫る崖の上には、高級マンションが建っています。

大隅坂と狸坂が落ち合う地点で、路地は本光寺前を抜ける道路に出ます。

狸坂

 狸坂は、人を化かす狸が出没したことがその由来という、そのままの名前の坂で、ごらんの通りかなりの急坂となっています。坂の下の標高13mに対し坂の上は26m。がま池の谷の深さがよくわかります。
(2011年撮影)

 川はこの狸坂の袂で、元麻布プレイスの谷筋から流れ出していた小川(仮称「麻布宮村町支流」)に合流し、麻布十番方面へと流れていました。次回は今なお一部は水面を保ち湧水の流れるその小川を麻布十番まで辿ります。

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