ひきつづき、宇田川の下流部を辿っていきます。
暗渠再び
小田急の線路の東側に渡り、西参道から井の頭通りに抜ける道をしばらく進むと再び河骨川の暗渠が右手に現れます。入り口には車止めが設けられています。
蛇行
幅2mほどの細い暗渠は、そこに水が流れていた頃を思い出させるような、きれいなS字蛇行を描いています。左右に道が横切っているところには、かつて「山谷橋」が架かっていました。
幻影
この辺り、沿道に土が露出していて木があったり、アスファルトの隙間から雑草が生えていて、少しだけ小川が流れていた頃の様子を想像できないでしょうか。「岸のすみれやれんげの花に」囲まれた小川に「えびやめだかや小ブナの群れ」が泳ぐ幻影が。
北星橋
暗渠は小田急の線路沿いに下っていきます。踏切を横切る道路のところには「北星橋」がかかっていました。道が盛り上がっているのは、その名残でしょう。上流部と同じく、かつてはこの近辺も川筋は数本に分かれて谷戸を平行して下り、水路の間には水田が広がっていました。
暗渠はいったん線路から離れ、宅地の間の細い路地となります。小田急線が開通したのは1927年。それまで水田が広がっていた河骨川沿いは一気に宅地化し、幾筋もにわかれていた川筋も一本にまとめられていきました。
茄子畑
線路と暗渠がわかれる三角形の狭間には小さな畑があり、茄子などが植っていました。近所の家の家庭菜園でしょうか。(※2015年現在では消滅しています。)
春の小川碑
しばらく進むと、暗渠沿いの道路に、暗渠に背をむけて「春の小川碑」が設置されています。唱歌「春の小川」は1912年(大正元年)作詞尋常小学唱歌として発表されました。作詞者の高野辰之は「朧月夜」や「ふるさと」といった作品でも知られており、当時参宮橋に住んでおり、よく散歩していた河骨川の源流部をモデルにして「春の小川」を作詞したといわれています。
「春の小川守る会」
春の小川の碑のすぐ横には「春の小川守る会」と書かれた看板が立っています。こちらは河骨川の暗渠の方に向けられてはいますが、ずいぶんと高い位置に掲げられています。小田急線の車窓からも見えるこの看板は色あせて錆びており、かなり古い様ですが、この会は現存するのでしょうか。
新潮橋跡
春の小川の碑の先の踏切のそばには、かつて「新潮橋」が架かっていました。暗渠上のアスファルトに、その欄干の痕跡らしきものが埋まっているのが見えます。もともと架かっていた「汐返橋」を1950年頃に架け替えた際に「新」潮橋としたものですが、その後十数年で橋は暗渠化によりなくなってしまいます。 付近のかつての小字名は「汐返戸」で、一部の郷土史家はこれを、かつてこの付近までが感潮域で、海の水がここまでさかのぼっていたことによるのではないか、と推定しています。確かに周囲の台地上には縄文時代の遺跡があったり、地層からは大量の貝殻が出土したりといった事実はあるのですが、地名に残るほど最近の時代までそうだったのかどうかは疑問の残るところです。
暗渠路地
この先しばらく小田急線沿いに下ったのち、代々木八幡駅東側の路地裏を縫うように進みます。車止めがかつての川の位置を示しています。
宇田川に合流
河骨川(の暗渠)は、富ヶ谷1−7で代々木八幡駅方向より流れてきた宇田川本流に合流して終わりとなります。手前の煉瓦色の道が宇田川の暗渠で、左から右へと流れていました。
かつてこの付近は「代々木深町」という地名で、底の深い泥沼のような田圃が広がっていたといいます。そして、河骨川の他にも初台支流(初台川)、上原からの本流、富ヶ谷支流といった流れが複雑に絡み合いながら合流し、川筋を太くして渋谷方向へと流れていました。次回は初台支流(初台川)を辿ってみます。
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