ひきつづき、宇田川初台支流の下流部を辿ります。
暗渠の湿度
写真は車止めの暗渠が始まる地点から少し進んでふりかえったところです。路面が何となく湿り、舗装の隙間の雑草や苔からは湿度の高さが感じられます。
まっすぐな暗渠
暗渠はほぼ直線を描いており、下流に向かう程太くなっています。大正時代末頃まで、流域一帯には「初台たんぼ」と呼ばれる谷底の水田地帯が、現代々木八幡駅付近まで続いていました。その頃の川は、河骨川と同様、いくつかの流路に分かれて流れていました。現在の風景からは想像がつきませんが、写真の暗渠の両側、塀があって家が建っているところも一面の水田だったのです。
昭和の初めには、それらの水田は区画整理され、やがて宅地化していきます。川もその際に一本にまとめられ、まっすぐになりました。
初台橋
暗渠を下って行くと、山手通りに出る手前の地点に、橋がそのまま残っています。「初台橋」です。渋谷川水系の暗渠では唯一、欄干が完全な形で残っている、貴重な遺構です。
「初台橋」の銘板
欄干の端には「初台橋」と書かれた銘板が嵌めこまれています。そして、側面には昭和34年9月竣工、と記された銘板が埋め込まれています。川が暗渠化されたのは1960年代後半なので、橋が実際に機能したのは10年ちょっとだけだったのでしょう。
「はつだいばし」の銘板
反対側の欄干には、ひらがなで書かれた銘板も残っています。ただ、橋自体はあちこち欠けたり傷んだりしていて、積極的に保存されているというわけではなさそうです。
※2015年追記:ひらがなの方の銘板は、現在失くなってしまっており、その行方も不明です。
橋跡その2
山手通りにでる直前、初台駅前からの道が山手通りに合流する初台坂下交差点の脇にもコンクリート製の欄干の痕跡が残っています。
※2015年追記:こちらも現在は消滅しています。
山手通りと代々木八幡の丘
ここより下流、川は現在の山手通りの東側沿いに道路から少し離れて流れていましたが、現在道路の拡幅工事が進んでいて、全く痕跡はありません。山手通り沿いにもかつては支流が流れており、この付近で合流していました。支流の一部区間は道となって残っています。
写真の奥に見える森は代々木八幡宮で、台地の突端の上に位置しています。反対側(東側)は河骨川の谷となっており、二つの川に挟まれて細長く岬のように伸びた台地となっています。代々木八幡宮は1212年に創建されたと伝わっていますが、地形からしても、神社ができる以前から聖地だったと思われます。境内では4500年前の縄文時代の遺跡が発掘され、竪穴式住居が復元されています。
弧を描く道
川は暫く下った後山手通り西側に移り、山手通りから右手に別れ左カーブを描いて山手通りの八幡橋下をくぐる道沿いを流れていました。1960年代なかばに、道の拡幅とあわせて暗渠化されたため、水路の痕跡は全く残っていません。
宇田川との合流
山手通りをくぐって小田急線の踏切を渡ったところ、代々木八幡駅の前付近で、初台支流は代々木上原方面からの宇田川本流と合流し終わりとなります。写真の道路右端、タイル張りの歩道が暗渠です。宇田川は道沿いに暫く続いた後道路から別れて左側に進み、河骨川と合流していました。
なお、ある時期までは初台支流と宇田川本流はもう少し下流寄り(代々木公園交番交差点南西側)で合流しており、この区間は初台支流としての流路だったようです。といっても、河骨川の項でも触れたように、一帯では底なしの深田の中をいくつもの支流が複雑にからみ合って合流しており、もともとははっきり合流地点を特定できるような状態ではなかったのだろうと思われます。
次は同じくこの付近で合流していた「富ヶ谷」を流れていた支流を辿ってみます。
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