甲州街道の渋谷区本町1丁目交差点から、代々木郵便局前を通って山手通り初台坂下交差点に抜ける道沿いは、かなり深く傾斜もある谷となっています。かつてこの谷底を、宇田川の支流が流れていました。文献によって宇田川初台支流とも初台川とも呼ばれているこの川は、初台2丁目14番地近辺より流れ出ていたと思われます。(地図によっては更に上流側の延長線上にある玉川上水から分水しているように書かれているものもありますが、玉川上水の記録にはこのような分水は記されていません。)川は1960年代後半には暗渠化されてしまいましたが、今でも大部分が暗渠としてその痕跡を辿ることができます。
源流地点
写真は谷を東西に横切る道で、道が下り切って再び上り坂になる地点が谷頭付近です。谷が南(写真左側)にかなり傾斜しているのもわかります。
川跡のスタート地点
はっきりとした川跡は初台2丁目14番地と13番地の境目付近から始まります。建物の間に雑草の茂る荒れたスペースが残っています。ここより上流側にも、ぽっかりと凹地になった住宅地がありますが、水路の痕跡らしきものとしてはここが最上流端となります。明治時代の地図でもこの場所の辺りから水路が描かれており、周りは牧場や森となっています。
川跡の路地
反対側(下流側)を振り返ると、スローブで降りる路地が続いています。かつての川の跡です。路地の入り口の路上に、何やら字が刻まれているのがわかるでしょうか。
埋め込まれた欄干
そこには「田端橋」と刻まれています。石橋の欄干が、側面を上にして地面に埋め込まれているのです。長さは2mにも満たない、小さな欄干です。普通だと、橋の名前は欄干の両端に設けられた親柱に刻まれるものですが、親柱を持たない小さな橋だと、このように欄干の側面に枠で囲んで橋名を刻むことがままあったようです。この場所に架かっていたものでしょうか。
※2015年追記:その後2011年に調べた限りでは、そもそも橋のある場所を横切っている道は昭和初期に開通しており、それまで橋はなかったということ、昭和期だと石橋が架かっていたとは考えにくいことから、この欄干は他の場所から持ってきた可能性があ考えられます。
実は、同じ幡ヶ谷村の中で、ここから800mほど離れた場所にも「田端橋」がかかっていました。その橋は、現東京オペラシティ北側にあった「出羽様の池」から流れ出た小川が、「旗洗池」からの流れをあわせて神田川笹塚支流(和泉川)に注ぐ直前に架かっていたものです。これが石材として運び込まれた可能性もゼロではないと思います。
湧水
さて、この田端橋のスローブを下り、路地の舗装がコンクリートからアスファルトに切り替わる地点の左側には大谷石の擁壁があり、そのたもとの側溝を湧水らしき澄んだ水が流れています。この湧水の存在は「世田谷の川探検隊」で明らかにされて以来一部では有名となっています。湧水はアパートの裏手の擁壁が直角に曲がるあたりから流れ出し、暗渠のところで下水へと落とされています。おそらく川の水面があったころから、変わらずに流れ続けているのでしょう。
川跡を下っていきます。左岸(北東側)には谷の斜面が迫っており、台地の上に上がる階段が見られます。台地の上には更にみずほ銀行初台会館の丘の緑が見えます。谷底と丘の上の標高差は10m近くあります。
車止めの暗渠
川跡はいったんマンションに遮られますが、しばらく南下した地点から、車止めの設けられたいかにもそれらしい暗渠が始まります。
(下流編につづく)
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