2015/12/17

【2-7】宇田川(1)狼谷の上流部

(※写真は特記ない限り2005年撮影のものです)

 今回から3回にわたり、宇田川の本流を辿っていきます。まずその源流部をさぐっていきます。最初に源流部の地図を示しておきます。宇田川水系全体の地図はこちら

(地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工)

「狼谷」の源流

 宇田川の源流部は、枝上の谷から流れるいくつかの流れが合わさっていますが、そのなかで本流は渋谷区西原2-49近辺の「狼谷(おおかみだに)」に発していた細流とされています。「狼谷」は「大上谷」とも書かれ、H字型の深い窪地となっています。川はH字右下にあたるところから南下し、小田急線代々木上原駅近辺で上原の谷からの小流と旧大山園近辺からの水をあわせ、その先で西原と元代々木の境界の谷からの小流をあわせ、代々木八幡駅近辺で河骨川、初台支流、富ヶ谷支流と合流していました。
 かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、そこから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれています。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説ありますが、ここ場合は湿地帯や河川流域の湿地をさす語との説が適切でしょう。

 すぐ近くの西原小学校校歌(1955年制定)では

 「みなもと清き渋谷川 細くはあれど一筋に 
 つらぬき進めば末遂に 海にもいたるぞ事々に
 精魂かたむけ 当たらん我らも」

 と歌われており、この一帯が宇田川≒渋谷川の源流と捉えられているようです。H字の底を囲むように、代々幡斎場や製品評価技術基盤機構、国際協力機構(JICA)東京国際センターといった施設が建てられています。写真はJICA東京国際センター前の道で、H字左上にあたる谷の谷頭地形が道路の起伏に現れています。



源流地点に残る湧水池

 かつての狼谷は森に覆われていて、谷底は水田となっていました。大正時代には森永製菓創業者の屋敷となり、水田をなくして、湧水を利用した池がふたつ作られました。現在屋敷の一帯はJICA東京国際センターと製品評価技術基盤機構(NITE)の敷地になりましたが、今でも色濃い緑に囲まれた谷底に池が残っています。JICA東京国際センターの池では、東京都の1991年の調査で敷地内に一日40立方mほどの湧水が確認されています。


(※2010年撮影)

流れだす川

 JICAの池からあふれる水は、小さな流れとなって隣の製品評価技術基盤機構の敷地内の池へと注ぎ込みます。

(※2010年撮影)

製品評価技術基盤機構(NITE)の池

 こちらの池はNITEの建物の建て替えにあたって、人工的なかたちに整備されていますが、こちらももともとは森永屋敷の敷地にあった池のひとつです。森永邸は昭和初期には「代々幡ガーデン」として開放されていたようです。


代々幡斎場南の道

 NITEに隣接した丘の上には代々幡斎場があります。斎場はもともと四谷千日谷(こちらも川の源流部)にありましたが、1664年、狼谷に移ってきました。以来300年以上この場所で続いおり、東京の火葬場の中で最も古いもののひとつです。
 斎場の南側には、いかにも暗渠を思わせる道がありました。この道はH字の右上に位置します。実際にはこのみち自体は暗渠ではなく、ここよりやや南に、池から流れだした川が通っていました。


狼谷底を望む

 写真は代々木大山公園南東側の道から、谷底の方向を望んだものです。かなり急な坂となっています。谷底の左手はH字の真ん中の横棒にあたる谷となっていて、かつては宇田川が左手から右手へと流れだしていました。



徳川山

 代々木上原駅前方面にまっすぐに下っていくこの道付近では、大正末期までは、細長い水田を挟んでふた手に分かれた宇田川が流れていました。昭和に入ると、一帯は箱根土地株式会社により台地の上とあわせて住宅地「徳川山」として造成され、1940年前後に高級住宅地として分譲されました。(堤康次郎率いる箱根土地株式会社はのちのコクドで、当時は国立や一橋学園といった学園都市の開発を手がけていました。)造成の際に宇田川は直線に整備された道路の下に暗渠として付け替えられたため、付近で川の痕跡はまったく見つけることができなくなっています。


交番裏の怪しい道

 狼谷は西原交番の付近で広い谷へと出ます。交番の南側には、すぐに行き止まりになる怪しい道があります。古地図をみるとここから東に、宇田川本流の北側に並行する水路が延びています。かつて谷底に水田が広がっていた頃は、水田の両側と真ん中に、あわせて3本の水路が平行して流れていました(冒頭の地図参照)。周囲の宅地化により、最終的には真ん中の水路が残り、1960年代後半に暗渠化されます。



大山園

 西原交番近辺では、西側から大山町の谷からの流れが合流していました。もともと一帯は森で、明治初期には木戸孝充所有の農園となり、その後所有者の変遷をへて1913年(大正2年)、谷頭にあたる大山町35番地を中心に、地形を利用した池や2つの滝、あずまやなどを備えた遊園地(庭園)「大山園」がつくられました。大正末期の地図を見ると、先ほどの交番の西側、大山町43番地の辺りに池が描かれています。
 1927年の小田急線開通後、大山園の土地所有者となった山下汽船の創業者により、一帯は宅地開発され、徳川山と同様高級住宅地として分譲されます。それともなって大山園の敷地は縮小していきますが、中心部の庭園は残りました。
 戦後1951年には、大山園はレバノン人の貿易商の所有となります。敷地内に朱塗りの太鼓橋や温水プールもある豪邸は、バブル期の1988年には430億円にて売却されますが、バブル崩壊に伴い土地開発は頓挫。その後1996年には渋谷区が80億円で取得、特別養護老人ホームと看護学校を計画します。ところがこれも中止となり、最終的には2000年に、某アパレル会社社長の邸宅となっています。
 敷地には塀が高く張り巡らされていて、中の様子はまったくわかりません。石垣が谷を横切ってダムの様にたちはだかっています。


西原児童遊園

 さて、西原交番から少し南西に下り、代々木上原駅前にある小さな公園「西原児童遊園」までくると、ようやくはっきりした暗渠が現れます。暗渠は公園の東端の階段を降りたところから始まります。


住宅地の中を縫うように、暗渠の細い路地が曲がりくねって東へと続いていきます。


 この近辺では、駅南西側の上原の谷からの支流が合流していました。代々木上原駅前から代々木八幡駅近辺にかけての宇田川流域一帯は、かつては「底ぬけ田圃」と呼ばれる低湿地帯で、踏み入った鳥追いが泥に呑まれ溺れ死んだとの伝承も残っているそうです。次回は上原の支流に立ち寄った後、引き続き宇田川中流部を下っていきます。


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